白昼夢、或いは全部勘違い

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音楽くらいは魔法であってくれよと願う私と、音楽を魔法たらしめんとする西の魔女のこと

音 楽 は 魔 法 で は な い ・ 大森靖子 - YouTube

「音楽は魔法ではない」を巡る世間のことは置いておいて、伝えたい事は以下の3点。

  • 「音楽は魔法ではない」という言葉に、私がどれほど救われたか
  • 「でも音楽は...」のその先
  • 「音楽の魔法」とは何か

本当は「ふざけんなぶん殴るぞ」などと思うことも沢山ある。
でも私に出来るのは好きを伝えることなので、上記3点について思う所を綴る。
あと、今年の目標は「誰にでもわかる文章を書く」と「言葉は短く、愛を濃く」なので、手短(当社比)に。
頑張って2500字くらいにまとめたので、まあ、読んでくれよ。


「音楽は魔法ではない」という言葉に、私がどれほど救われたか
私が書くものはすべて個人的な話だが、その中でも極めて個人的で、軽微な絶望の話をする。
10代の頃、「音楽は芸術であり、芸術はすべて尊く、また音楽を通じて得たものは全て大切にすべきものだ」と信じていた。思い込んでいた、のほうが正しいかもしれない。
だから音楽を通して得たもの、簡単に言うと吹奏楽部で得た思い出も写真も同級生もその他全てをなかったものとした自分は音楽にとても失礼なことをしていて、音楽を好きでいる資格なんてないのだと思っていた。
なのにライブハウスに通うことはやめられず、積み重なるCDは罪悪だった。

初めて大森さんのCDを買ったのは、発売されたばかりの「魔法が使えないなら死にたい」。
繰り返される「音楽は魔法ではない」を聴いて、「『音楽は魔法ではない』って、思ってもいいんだ」と、私の頭の中には全くない考えを、ましてやミュージシャンが歌うことに驚いた。
「でも音楽は...」と続くその歌詞から、「この人は、本当は『音楽は魔法だ』って思っているんだろうな」と考えたし、「音楽は魔法ではない」の真意はきっと私が意図していることとは一致はしないだろうと思ったが、それでも私にとって「音楽は魔法ではない」は呪いを打ち砕くお守りのような歌詞だった。
「音楽は魔法ではない」という言葉に私がどれほど救われたか、そんなこと私だけが知っていればいいのかも知れないが、多く見積もって10人くらいが読んでくれるここに書き留めておく。
ノスタルジーに中指一つたてるのにも、私は滑稽なまでに必死だ。


「でも音楽は...」のその先
その先について、私なりに考えたことを綴る。

私が言い切ることに躊躇いはあるが、「音楽は魔法ではない でも音楽は...」のその先は、「でも音楽は魔法だ」だと思う。
もう少しわかりやすく言うと、「すべての音楽が簡単に魔法になれるわけではない。でも、音楽はきっと魔法のようなものになりうるし、音楽の魔法を手に入れるために歌を歌っている」だと思っている。

わかりやすく、以下「音楽は魔法ではない」を音楽(A)、「でも音楽は」を音楽(B)と書く。

脱法ハーブ 握手会 風営法 放射能
ダサい ダンス ダウンロード
って言ったら負けのマジカルミュージック

「マジカルミュージック」は音楽(A)を指しているように思う。
この曲が作られた当時のライブハウスを中心とした音楽シーン(音楽シーンってどこ?)で話題になった用語が並べられている。
よく解らない人は2012年の出来事を調べるか、私に聞いてくれ。
考えていかなければならないことかもしれない。でも、不安で仕方がないことばかり。
音楽が簡単に「魔法だよ!」と呼びきれないものであること、いつ何時も平穏無事なものになり得ないことを表す事実の羅列だ。

ノスタルジーに中指たてて
ファンタジーをはじめただけさ

ファンタジー即ち幻想、「魔法が始まる」というよりは、「Fantasyが始まる」へのオマージュの意味合いが強いのではなかろうか。
大森さんは「Fantasyが始まる」の歌詞を体現し音楽(B)を生み出すことで、魔法に近づけてくれているのだと思う。

タイトルの通り、「音楽くらいは魔法であってくれよ」というのは音楽にへばりついて生き伸ばしてきた私の願望だ。
自主的に手を伸ばさなければ、音楽とは縁もゆかりもないところで生きている。毎日毎日儘ならない。
せめて音楽の中くらいは、私の唯一のサンクチュアリイであってくれよと望んでいる。
また明日も生き伸ばすことの出来るように、せめて今だけは安全で不安がないと思わせておくれよと切に願っている。
大森さんの音楽と対峙している時そこには私と大森さんしかないから、私はいつも安心している。
何人もに個別のシェルターを作り出すような音楽(B)は「魔法」と呼んでもいいのかもしれない。

「音楽の魔法」とは何か
「音楽を捨てよ、そして音楽へ」が収録されている1stアルバムのタイトルは「魔法が使えないなら死にたい」だ。
同アルバムに収録されている、表題曲に近いタイトルをもつ「魔法が使えないなら」の歌詞を引用する。

魔法が使えないなら死にたい

音楽の魔法を
手に入れた西の魔女4: 44

西の魔女とは、西日本である愛媛県出身の大森さんのことだろう。
オズの魔法使いのことも思い出すし、梨木里香の『西の魔女が死んだ』も思い出すが、あまり関係はなさそうだ。)
(『西の魔女が死んだ』、とてもオススメの一冊。)

アルバムタイトルに「死にたい」と入れるほど「魔法」を手に入れることを望んでいるのだとしたら、きっとその魔法とは「音楽の魔法」のことだろう、と思った。

ところで、そもそも「魔法」とはなんなのか。
あの頃「音楽は魔法なのか」という意見は飽きるほど目にしてきたが、私にはそれがとても奇妙に思えた。
杖を振ったらドカーンと爆発し呪文を唱えたら怪我が治るような代物の存在をおそらく全く信じていないであろう人々が「魔法だよ!」「魔法じゃないよ!」と熱弁することに「そもそも魔法って何だよ…」と少し冷めた目を向けていた。
先に記載したとおり、私にとって「音楽の魔法」は絶対に安心できるサンクチュアリイを生み出すものだが、「音楽」も「魔法」もイメージするものは人それぞれだろう。
「議論を始める前に用語の定義をしなければならない」は私の担当教授が繰り返し教えてくれたことだ。私が今も大切にしている教えの一つなので、おすそ分けする。

「殆ど毎日不安なく生きています」という人にとって、安心を提供してくれるものはきっと魔法ではないだろう。ファンタジーではなく、普通だ。
生きることが不安で仕方ない私には、「これがあれば安心!」というものは魔法と呼んでしまうほど得難く、幸いなことにそれは私の手の中にあるし、足を運ぶこともできる。

音楽は魔法ですか、魔法と呼べる音楽があなたにはありますか。
願わくば、あなたのCDラックやiPodApple Musicの中にも、魔法が紛れていることを。

大森靖子「draw (A) drow」によせて(歌詞を好きに壊す試み)


大森靖子「draw (A) drow」(Music Video / 千葉雄大Ver.)

この、難解と呼ばれる歌詞を考える。
主たる正解は以下のインタビューを参照したらよいが、私は私で好きに壊して遊ぼうと思う。
kerastyle.jp

友人から「短めでよろしく」と言われたが、いつも以上に気取って書く。天邪鬼だから。
わかっているとは思うがこれは私が勝手にこねくりまわした考えなので、正解でも何でもない。
お遊び気分で9000字弱を読んでほしい。頑張れ。

まずはタイトル。

draw:描写する。ドローイング。
drow:時雨(晩秋に降る小雨)。

アナグラム
draw→ward 区画、病棟、独房
drow→word 言葉

回文
word (A) ward
award:賞

「draw (A) drow」、単純に考えれば「時雨を描く」、詳しくは前述のインタビュー。
区画に病棟、言葉が閉じ込められた独房はどこだろう。
私はよく、発言の一部が切り取られることにたまらない不快感を覚えるが、一人歩きさせられた言葉たちは前後の文脈を失い、背景を失い、それはまるで独房のようではないか!
いや、独房は人目に晒されないであろう。どちらかというと張見だろうか。
言葉の賞、炎上した言葉がランクインしそうだ。

誰かの美しい閃きが作った世界は
誰かを失って宿主不明の

「誰かの美しい閃き」が新しい思想だとしたら、それは、ここでは、まあ、アレだ。
きっと美しかったこともあるのでしょう。私だって恩恵がないと言えば嘘だし、私の生き様だってその観点から褒められてもいいところがあるはずだ。
「宿主」とはその世界が作られたことによって救われる人々、或いはその世界が救おうと標榜していた人々だとして、新しい発明は誰かを救ってくれればと願うが、年末にインターネットで少しだけ話題になっていたが結局誰のためのなんだったのか、今では他者を傷つけるだけなのか、だからネオだなんて云々、ここから先は怖いので不勉強だ。
以下、アレを「ネオでないもの」と呼ぶ。
アレが指すものは本文中の6文字なので各自回答のこと。

平和 フェミニズム 少女性神話崩壊

読み方で言葉遊びをしよう。
少女性 神話崩壊。
しょうじょせいしんわほうかい
少女、精神は崩壊。
ネオでないものが私の大好きなあの人したことを思う、しばきたい。
ところで、神話は崩壊するだろうか。
始祖神話なんて簡単に崩壊しないだろうから、崩壊する神話と言われて思い出すのは「三歳児神話」だ。
一昔前まで当然とされていたのに今では「そんなアホな」と教科書に書かれているあの神話。
簡単に崇められて簡単に崩される、本来の「神話」以外でそう呼ばれるもの以外にはそのような印象を持っている。

では、少女性の神話とはなんだろうか。2つ考えた。
1つは「全ての女の子を肯定する」「少女性の守護神」という大森靖子のパブリックイメージだ。
言葉の魔術師、全ての女の子を肯定する人、少女性の守護神、大地の女神、人、とスラスラ変わるそのイメージ。
ただ、女神になるその直前、「ゆめかわいい」という概念が100均の商品(最先端の大衆文化、の少し後)に登場する少し前、膨らみすぎた「少女」の概念は些か軽く、それは私の思う大森さんの守備範囲ではないなあと思っていた。
守護神にされて、女神になって、入れ替わるパブリックイメージに神話の崩壊を重ねる。
もう1つ、少女性というよりむしろ処女性、アイドルは絶対に処女!という神話の崩壊を思う。
例えば「エッチだってしてのにふざけんな」からのセンター、例えば「まくらぽん」、処女厨キンモー★滅べ★というカジュアルな暴言ではなく、「パラダイムシフトかな…」と思っている。

正しさ 血縁 普通
幻虫が僕を壊してく

「正しさ 血縁 普通」、これが並ぶだけで息苦しい。そうでない人はとても健全に育った人か、あるいはモラルハラスメントに片足を突っ込んでいる恐れがあるのでご一考願いたい。
「幻虫」は存在しない単語とのことだが、虫の幻覚は薬物乱用防止の全校集会でもよく紹介されてたし、幻覚のなかではメジャーな印象がある。幻覚にメジャーもクソもあるのか。
この「血縁」は血縁によるなにかしらの矯正、家族仲良くとか家長がどうのとかそういうことだろう。「家族」と言い換えてもいい。
「正しさ 血縁 普通」が「幻虫」だとしたら。
結局のところ、「正しさ 血縁 普通」は存在するのだろうか。私にはわからないが、少なくとも誰かにとっての正しさ 血縁 普通」が、私にとって絶対ではないし、逆も然りと思っている。
そういう「幻虫」がしんどい人にお勧めのコラム。好き。

http://www.ism.life/contents/139

『愛情深く心から理解しあえる家族は確かに素晴らしいけど、その理想は誰かが傷つくことで体現できるものではないわ。』!

敵のいない怒りが才能を帯びて震える
それさえなければ愛されたのにね

先ほどは、「宿主不明」、主体性の喪失や主人公の欠如について考えたが、ここでは、「敵」の不在について歌われている。
私は好んで「仮想敵」という言葉を遣うが、これば「お前の怒りは本当に対象が存在するものなのか、被害妄想ではないか」という自分自身への揶揄である。
しかしここで「敵のいない怒り」に震えている主体は才能を帯びている。つまり、超歌手大森靖子だろうと仮定する。
「愛されたのにね」から、「流星ヘブン」の「この世界に愛されたい」を思い出す。
怒りさえなければ、その才能をもってして十分に評価され、今よりももっと拡散されていたのかな。
この文章は徹頭徹尾私の妄想でしかないが、万が一大森さんがそんなことを考えているのだとしたら、私は私の周りにいる、大森靖子を必要としている誰かに大森靖子を届けることをやめないでいたい。
最近、もうあまり会わない人から「ラストアイドルの審査員が大森さんの回になると●●さん(私)のことを思い出す」と言われた。
その調子で@YouTubeさん以外で音楽も聴いてくれたら嬉しい。

上昇気流で低気圧が発生し
道端 垂れ流す 脳汁は感染し

低気圧とメランコリックの関係を強く感じている人は少なからずやと思うが、上昇気流がそのままさに「上昇」、たとえばチャートを駆け上がるような上昇だとしたら、低気圧はそれに伴い発生するノイズに起因しているのかと想像する。
想像しただけでつらくなってきた、何が有名税だ、しばくぞ(私の)仮想敵。

すれ違う 手作りの夕景
グレイで沈めた 油絵のにおい

ここで出てくる「夕景」、いかにも『draw (A) drow』、時雨を描いている。
大森さんの今までの歌詞では見慣れないが、凛として時雨からすると定番の単語がちりばめられている。

気付いたものを抜粋する。
抜粋状況からお察しの通り、私は最初の2枚が大好きだ。

夕景の歌を探しました(Sergio Echigo)
君を殺して 花を枯らした(Sergio Echigo)
鮮やかなクラクション(鮮やかな殺人)
花が少し枯れるから(鮮やかな殺人)
刺して ナイフで刺して ぐちゃぐちゃにして(Sadistic Summer)
灰色だった 君の音は(ターボチャージャーON)
透明な歌の意味を教えて 歌の意味が消えていくとき(ターボチャージャーON)
どこかで見たような夕景(傍観)
僕になりすましている自分を ゼロというナイフで切り裂きたい(傍観)

「灰色」ではなく「グレイ」となっているが、私が思い出したのはあのMVだ。
また、油絵と言えば美大時代のことだろうか。
先日のMUTEKIツアー金沢公演では美大時代の思い出を多く語ってくれたが、他者とのコミュニケーションが著しく欠如していたことをMCで何度か聞いた。
「すれ違う」「油絵」からは他者との交流が閉ざされていることを感じるし、「グレイ」から今はいなくなってしまったバンドのことを思い出す。
離別や孤独が歌われているのだとしても、「沈んだ」ではなく「沈めた」、自動詞ではなく他動詞であることに主体的な意思が込められているのであれば、それは寂しさではないのだと思いたい。

圧倒的な君の哲学は白濁のコンドームで
護れなかった自分なんて
突き刺した順に死ね

この歌詞が私にとって一番難解、というか自分にとってしっくりくる解釈を持つことが出来ていない。
「白濁のコンドーム」から、ここの「君」は男性であることが予想される。
そして「圧倒的な君の哲学」は率直な賛辞ではなく、「こっちはお前の理屈で生きてないから!」という皮肉だと私は感じた。
そうであれば、この「白濁のコンドーム」が示すものはなんだろうか。
「圧倒的な君の哲学」が揶揄だとしたら、白濁が自慰の結果、すなわち独り善がりな自己満足の結果であればしっくりくるのだが、コンドームであればオナニーではないだろう。あるいは、オナニーにもコンドームは用いられるのだろうか?私には解らないし、知りたくもないので誰も教えてくれなくて構わない。
あるいは、コンドームすなわち避妊、次の命を育むものではないことを示しているのか。
至極真面目に考えたが、家庭で共用しているPCに様々な予測変換が残ってしまった事に困惑している。

「自分」に「突き刺した順」があることから、「自分」が複数あることがわかる。
「複数存在する自分」から、本作のカップリング曲「わたしみ」の世界観と繋がりを思う。
「わたしみ」についてはかつて感想を述べたので下記を参照してくれたらすごくうれしい。
100milliliter.hatenablog.com


身体的な活動停止に伴う生死と、「仮想的な自殺」に代表されるそれ以外の死については「流星ヘブン」の歌詞に顕著だと思うが、この「死ね」は「忘れる」ではないかと思った。
「許さないまま、忘れる」といつぞや述べていたと記憶しているが、ここでの「自分」は「護れなかった」し「突き刺した」のだ。
やや自暴自棄にも思えるが、傷ついた自分をいつまでも取っておくことは、非常に負担が大きい。
「お気に入り、使い古した絶望」の夢を未だに見る私が言うのだから間違いない。
ただ、出来ることなら自分のことは護りたいし突き刺したくないし死んでほしくない。そんなにうまい事はいかない。なので頑張る。

draw (A) drow 僕が描いた僕だけが
次の一手をそっと僕に告げる
なにかが体内で 意思を持って産まれるとき
とても痛いけど

冒頭に記載したインタビューの通り、この曲で大森さんは常ならば本人は却って表現し辛い「時雨っぽいもの」を描いている。
しかしながら、1つ目の「僕」は「大森さん」、2つ目の「僕」は「大森靖子」を示しているのだとすれば、当然ながら大森靖子を描いていくのは大森さんに他ならないのだと、そしてそれは出産さながらの産みの苦しみ(出産した経験がないし、千差万別であろうから想像も及ばない言葉だ。遣いづらい。)を持つのだろうと思う。
ここで「産まれる」ものはお子さんと楽曲を掛けているのだろうが、楽曲も「意思を持って産まれる」ものである点に着目したい。
「この歌私のこと歌っている」(マジックミラー/TOKYO BLACK HOLE)と思うことが、私は最近個人的な事情により増えたが、それらの楽曲たちが意思を持って産まれているのだとしたら、それが体内から放出(出産、より放出、というイメージ)されることを想像すると、そのエネルギーにゾッとする。「痛い」って大森さんも言ってるし。

運命って言ったのは他の運命殺すため
摘み取った花はすぐ枯れてしまう
地を這う花よ 剃刀の夢は夜ひらく
好きな色で生きてみて

この「運命」からは「わたしみ」にも登場する「運命」と同じものを指しているのだと思う。
そのように考えると、「draw (A) drow」と「わたしみ」が同じCDに収められていることに大きな意味を覚えるので、ぜひCDを購入して聴いていただきたいものだと思う。

「夢は夜ひらく」は「圭子の夢は夜ひらく」のオマージュだろうが、10代の少女から圧倒的な支持を集めているらしい(PON!とかで言ってた)大森さんのファンの10代の少女に、「藤圭子宇多田ヒカルのお母さんだよ」と説明してもまず宇多田ヒカルを知らない場合もあることを、私は覚悟しなければならない年齢になった。負けない。何にだ。「えっ、三十路なの?」って言ってくるあいつだよ。三十路まで生き延びたことを評価してくれ。してくれなくてもいい。
改めて「圭子の夢は夜ひらく」を聴いたが大変に素晴らしく、YouTube様ありがとうという気持ちだ。
「好きな色で生きてみて」とある通り、一連の歌詞はこの曲へのアンサーだろう。
摘み取られすぐ枯れてしまう花から、「●●っぽい」「ポスト●●」と言われて簡単に消費され消えていく若い女の子のミュージシャンを想像した。「地を這う」とあるから地下アイドルも含まれているのかもしれない。
「女の子」に限った話ではないと思うが、「好きな色で生きてみて」のメッセージをより受け止めるために、是非「圭子の夢は夜ひらく」を聴いてほしい。
圭子の夢は夜ひらく 藤圭子 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索

切り刻む秘密が塵のよう
視界をかすめて 逆に鮮やかな

この歌詞も今ひとつ咀嚼できていないことを白状する。
TLの様に届くという大森さん宛のDMをイメージしている。
ここでも「鮮やか」という歌詞に時雨っぽさ、時雨みを感じる。

あの日のフィクションブルース 点滅のbeat
煽る信号に間に合えたのかな

この辺りも時雨みを感じる。(つまり咀嚼できていない)
「煽る信号」とあるが、煽られているのが大森さんで、信号とは「速くしないと間に合わないよ」ということであれば、女性がミュージシャンとして売れる年齢のことを示しているのではないかと思う。
そんなものあってたまるかと思うが、現に25歳だか30歳だか以降の人は残念ながら演歌の人しか浮かばないし、私が小学生のころ「歌姫」は10代後半ですらあった。あゆを知った時には20代だったので、「この人はハタチ過ぎてるんだな」と思ったことを思い出した。
そんな煽り、一体誰に何の得があるのだろうか。私には解らない。ちょっと悲しい。

なにかが体内で
歌えないで 耐えないで

この辺りの母音の並びに時雨みを感じる気がするのだが、そこまで時雨の歌詞を解析していないので勘違いかもしれない。
同じような音を並べた言葉遊びだとしても、「耐えないで」は「煽り耐性」のことを指しているのではと思う。
耐えないでもいいのだ。悲しいものは悲しいし、嫌なものは嫌なのだ。誰が三十路だ。私と大森さんは30年生き伸ばしたんだよ。
この言葉遊びに付け加えるとしたら「絶えないで」だ。
歌、音楽が絶えないことを願うし、私は生きるほうを選びたい。

心不介在の奇怪なスローモーション
エモーション溶かして
使い捨ての僕の閃きを突き刺して死にたい

「突き刺す」という言葉も実に時雨みがある。
「刺して ナイフで刺して ぐちゃぐちゃにして」(Sadistic Summer)と初めて聴いた時はたまげた。
歌いだしでの「ネオでないもの」の話に戻る。
「宿主不明」「敵のいない」に続き「心不介在」と来た。
(私には)咀嚼し辛い歌詞が続くが、今までの歌詞を総括する箇所はここなのだろうか。
興味本位の炎上加担、コンテンツ消費速度への警鐘?
この「死にたい」や「僕」は何を示しているのか、今も考えあぐねている。

draw (A) drow 僕が描いた僕だけが
次の一手をそっと僕に告げる
間違ってる 間違ってゆく この歌を
黒いビニールで 海へ流したら

「間違ってる」「間違ってゆく」のは、誰(主体)で何(対象)なのか考える。
「この歌」が主義主張や美学や意思だとして、それを「間違ってる」と定義するのは冒頭の「幻虫」だと私は思った。
そして「間違ってゆく」のは世界からこの歌(主義主張や美学や意思)への理解、なのかもしれない。
「わたしみ」では「馬鹿な奴の理解を少し諦めている」と歌われている。この文章(ここまで7000字)も、さっぱり的外れで無理解を露呈しているだけかもしれない。
こういう文章ではなくて、もっと、こう、Amazonレビューにぴったりの販売促進になるようなモノが書きたい。
2018年の目標は、Amazonレビューを書くことにする。

「黒いビニール」で思い出すのは、かつての家庭用ごみ袋と、女子トイレの三角コーナーだ。
三角コーナーが「汚物入れ」と呼ばれることが私はひどく嫌だった。
私が好きで排出してるわけでもない、お腹も痛いし面倒くさい結果を「汚物」と呼ばれること、まるで自分が汚物にでもなったかのような気分だった。なので、たとえ丸でも四角でも何でも「三角コーナー」と呼んでいる。
三角コーナーに伴うあれそれは隠されがちだ。
こそこそ隠さなければならないことは、自分がいけないことをしているような気持にさせた。悪いことは何もしていない。お腹も痛い。
そのため、この「黒いビニール」という単語選びから私は自分が感じていた憤りを思い出すし、この言葉が歌詞になったことで、少し溜飲が下がった気がした。
「今まで憤っていたから、この歌詞をこんな気持ちで聴けるのだ」と思うことを救いとしたい。
ちなみに「汚物入れ」という呼称はいつからかどうでもよくなった。30年生き伸ばしてきてよかった。

永遠にしないで 透明にしないで
絶対にしないで 好きに壊して

その時のただの発言を繰り返し繰り返し、長々語られることが好きではないし、スクリーンショットは写真作品ではない。
簡単に「永遠」が作れるからこそ、変わっていく大森さんを見つめていたいし、その時好きだと思えば好きだと伝えたい。
それが私に出来る「永遠にしない」だ。

透明とは何だろうか。透明感のことだろうか。ザキヤマあおいだろうか。
「透明感」というつかみどころのない賛辞の使い道が私には今ひとつ解らないが、あの頃のザキヤマあおいが最強であったことはよくわかる。

「絶対少女」「絶対女の子がいいな」「絶対絶望絶好調」、「絶対」の登場回数は少なくない。
私はいつだって自分の「好き」が疑わしいし、いつだって新作をひいき目なく触れることが出来ているのか自信がない。
(ひいき目の無い態度で芸術に対峙したいというのは私の美学のようなものなので、絶対だとは思っていない)
私は大森さんを「絶対」にしてやしないだろうか、と思っているが、この「絶対にしないで」はそういうことかな、解釈一致だったら嬉しいな、などと思っている。

歌詞でも何でも自由に受け取ってくれれば、というMCが先日の金沢であったと記憶しているが、この文章も「好きに壊して」の一環だと私は勝手に思っている。
が、それよりも大きな「壊す」は、やはり「芸術を創造すること」だと思う。

また誰かが 斬新な希望で
僕の遺作を 世界を壊して

大森さんもまた「●●っぽい」「ポスト●●」と言われてきた側であったと思うが、今度はその逆、「大森靖子っぽい」「大森靖子のパクリじゃん」と言われている人を目にすることも増えてきた。
初めて見た時は煮えくり返るほど怒りを覚えた。大森さんは、そういうのに対して活動してるじゃん、なんでわかんないの、って。
しめじのパスタ食ってんじゃねえよ。私が一番怒ってるのはあの時ソレだった。
なので、「世界を壊す」ほどの存在を願っているのだとして、それは願うだけでなく、そのための世界をまさに今用意してくれているのが大森さんだと私は思っていて、そこが私はたまらなく好きである。
大森さんに好きだともっと短く伝えられたらどんなにいいものか、最近手紙は2枚までを心がけているけれども、どうしても3枚になってしまうのが悩みだ。
ルーズリーフにびっしり6枚書いていた頃に比べたら進歩したと思ってほしい。

「draw (A) drow」について思ったことを綴った。
言葉を尽くしたつもりだが、これを読んでも、「よっしゃ、CD買うか」となるだろうか。ならなさそうだ。
誰か一人でも、「もう一度歌詞カード読もうかな」とでも思ってくれたら幸いであるし、私はAmazonレビューを書く。








リリースからずいぶんな時間が経ったが、時雨っぽさが強過ぎてまっすぐ聴くために時間を要した。年が明けた。

BL is DOPE!! vol.5の記録

11/18、トークイベント「BL is DOPE!! vol.5」に参加(ただの聴衆なのだけど、参加という気持ち)してきた記録。私は5回目にして初。だってトーキョー、遠いんだもの。
これを読んでいる主に東京圏の漫画読みの方には、BLというジャンルの読者である無しに関わらず、ぜひとも足を運んでいただきたいイベントである。

概要
なんのこっちゃという人のために概要を記載しておく。
ニイマリコさん(ロックバンド HOMMヨのギターボーカル)とヒロポン先生のお二人がゲストとともに、テーマとそれに即した作品などをもとにお話する。
今回は「BLと暴力」で、ゲストはライターの田口俊輔さん。
田口さんはいわゆる「腐男子」ではないとのことで、どちらかというと「ゾーンの広い漫画読み」という印象だった。
ちなみに「漫画読み」という言葉はご存知だろうか。私の中では「漫画を読むスキルの高い人」を示すものであり、冊数、ジャンル、リテラシー、秀でているものはなんでもいいが、私の憧れは何か別の専門(カルチャーなり芸術なり学問なり)があってそれと照らし合わせて漫画を読める人だ。
(私は自分の属性と特性、育ちとか思春期とか思想とか、を土台に深読みする精神的コスパが悪い漫画読みだ)

今回のテーマは「暴力」。
メインとなるのは商業誌より以下3作。

コオリオニ(上) (BABYコミックス)

コオリオニ(上) (BABYコミックス)

にいちゃん (Canna Comics)

にいちゃん (Canna Comics)

おやじな!?千夏と巴の場合? (EDGE COMIX)

おやじな!?千夏と巴の場合? (EDGE COMIX)

2016年の商業BL作品の中で最高傑作と名高い「コオリオニ」がとにかく大好きで、大人気作家の異色作品(らしい、私はこれが初見)「にいちゃん」から受けた衝撃は重く、他の読者が何を考えたのか気になって仕方のなかった私は、はるばるお上りさんとしてこのイベントに足を運んだ。
ひとつは未読であり、未読のものにうまいこと言及できないので以下の感想では残念だが割愛する。興味はとてもあるので読みたい。

ちなみに、初読時の私の感想。
とにかく面白い漫画「コオリオニ」のこと - 白昼夢、或いは全部勘違い
ねぇ、愛を証明して? - 白昼夢、或いは全部勘違い

漫画のトークイベントとして
漫画のトークイベントに初めて足を運んだ。
例えば「萌え語り」と呼ばれるような、作品のどの場面が好きなのか、どのキャラクターがなぜ好きなのかを話し合うようなことは、オンオフラインを問わず積極的に行われているだろう。
ではなぜ、わざわざ「トークイベント」として公共とも呼べる空間で漫画の話をするのだろうか。
私はただ単に「萌え語り」をする友人すらもいないが、本イベントでは驚くほどに公的というか、内輪ではない人々が集まって語るに相応しい話題が飛び交っていた。
「コオリオニ」と、同じく梶本先生の「高3限定」にも漂う暴力への憤りであったり、特に「にいちゃん」に対してのゾーニングの問題であったり、共通する「普通とは何か」であったり。インターネットで議論するには難しいデリケートな問題もあったり。
ネットでの議論でもなく内輪の居酒屋でもなく、「トークイベント」でなければ到達できないものがあるのだと知った。

教養が欲しい
「優れた教養は人生を豊かにしてくれる」とは作中の台詞だが、今回「勉強になったなあ」と一番に思ったのは、オペラについてだった。
「コオリオニ」で引用される「ファウスト」の登場人物について、木戸・八敷に照らし合わせた上で本作の意図をより理解する知識を与えられたことは参考になったし、この作品を契機として「ファウスト」に触れもしなかったことを後悔した。
田口さんが、3作に関心のある人にオススメと紹介してくれたものは幅広くたどり着くのも難しく、私にどこまで手が届くかわからないが出来る限り手を伸ばすことをゆめゆめ忘れないようにと思った。
他の参加者の方も熱心に作品名のメモをとる空間は心地よく、豊かな教養で豊かな感性を人生を育もうとする人々の中にひと時でも身を置けたことは、それ自体が豊かな時間だったと思う。

怒り
参加者もご意見あれば、と3名が言ってくださり、私は挙手して「佐伯はね!発達がね!ちゃんと専門の支援が受けれたらきっとね!!でも田舎だし!!」とやたら興奮してしまった(反省している)。
休憩時間にも少しだが他の方のお話を聞くことができ、どの方もこれらの作品について思うところが色々とあったようでそれだけたくさんの人に何かを喚起させる作品に出会えたことも、それに惹きつけられた人の話を聞けたことも、とても楽しかった。
一番印象的だったのは「にいちゃん」に対して強い怒りを持って発言してくださった方だ。
誰かが、言って仕舞えばフィクションに対して強い怒りを持っている様を目の前で見たのは初めてのように思う。対面することで生身の怒りが伝わってくるような、空気が震えるようなあの怒りから「にいちゃん」という作品が読者に与える力を見せつけられたような気がした。

「コオリオニ」再考
下巻のラストについて「いや、わかるでしょ!素直に受け取る人、ピュア…」という発言があったが、私はどうやらピュアっピュアであり、あのとき驚きに震えていたことを白状する。
八敷の存在そのものがクスリのメタファーでは?氷の女王ってアイスだし、と提起されていたので、家に帰って考えてみたら、情報提供者ってエスだし、翔って「トぶ」だし、と色々なことが浮かんできた。
何度も読み返すたびに発見のある作品だが、自分だけでは気づかないことも当たり前だがたくさんある。読書会にも行ってみたい。

結びに
楽しいイベントであったことが、少しでも伝われば幸いである。
興味のある人は次回以降に足を運んで欲しいし、私は教養が欲しい。

大森靖子「流星ヘブン」によせて(一瞬でもいいから追いつくために)

大森靖子「流星ヘブン[零]」Music Video - YouTube

大森靖子、ほぼ弾き語り的なほぼベスト的なアルバム『MUTEKI』(2017年9月27日発売)。
本作に収録されている、弾き語りでもなく再録でもない新曲、「流星ヘブン」について。
「大森さんがavexから出した曲の中で一番好き!」とリリースイベントで大森さんに伝えたが何がどう好きかは伝えきれなかったので、なぜそんなに「流星ヘブン」が好きなのかをここに書く。

私はこの曲を「超歌手 大森靖子が、リスナーに伝えたいこと」だと思った。
「リスナーに伝えたいことを歌にするって、そんなの当たり前じゃん」ということではない。
私はこの曲から「大森さんが『大森靖子』であるとはどういうことか」「『音楽を届ける』とはなにか」を勝手に汲み取っている。
大森さんが本当は何を考えているかは勿論知らないし、歌詞の真意を尋ねるのは野暮だ。
そして常々「歌詞がそのまま本人の体験や主義主張とは限らない」と思っているが、私はこの曲を大森さんから私(や他の誰か、知らんけどあなたとか)への手紙というか、大森さんが私(とか君とかあの人とか)を思って書いたブログか何かを盗み見ているように思った。なので、歌詞をどう解釈したかとそれでなにを思ったかに重点をおいて書き留める。

a.命の使い方 この世界に愛されたい

「命の使い方」で思い出すのは「IDOL SONG」(『kitixxxgaia』収録)だ。

ねえアイドルになりたい
すっごい愛をあげたい
このいのちの使い方を 君に愛されたい

着目すべきは「愛されたい」ものが「いのち」ではなく「いのちの使い方」である点。
まず、アイドルであるということ、アイドルとしてファンに「すっごい愛をあげる」ことを、自己表現や芸能活動や仕事などを超越した「いのちの使い方」として表している点にアイドルという存在について大森さんが考えるものの重さを感じる。
例えば私はごく普通の会社員だが、働くことを「いのちの使い方」だと思ったことは一度もない。
「いのちを使う」、言うならば「命がけ」で果たされること、私が想起するのは狂気に飲まれた哲学者や、結果以外の一切を失った研究者であり、大森さんにとってアイドルとはそれと同等の存在なのかと想像し、それだけ過酷でありながらその側面を見せない存在にゾッとする。
また、「いのちの使い方」という表現からは、「愛してもいいのはアイドルとしての自分だけだ」と暗示されているように思う。
「愛されたい」と願う対象は、「愛してもいい」対象と言えるだろう。そしてここではは「いのち」ではなく「いのちの使い方」なのだ。
つまり、アイドルである前に1人の生き物あるそのの存在そのものではなく、「アイドルであること」が愛することを許可された範囲だと私は受け取った。
(これは、私が常日頃『提示されていない消費の仕方をする』行為について怒りを持っていることに大きく起因する。例えば『シンガーソングライター』を『女の子』として消費するなよ、とか、そういうこと。)

話を戻す。
大森靖子」もまた、命を使って「超歌手」として活動している。
それを、「この世界に愛されたい」と歌っているのだ。
私は大森さんの音楽が好きだ。私と大森さんの間に先立つものはいつだって音楽でしかないと常に思っている。
そして、大森さんが音楽を届けるために行う、ありとあらゆる行為もまた私の好きを加速させる。
例えば、ファンと向き合う姿勢、ある時は、困難と向き合う姿勢。
先日惜しくも終了した東海ラジオの番組(通称 せいこりん)の最終回で募集されたテーマ「せいこりんの好きなところ」に私は以下のメールを投稿した。

1つ目は、音楽です。
大森さんと私の間に先立つものは、音楽でしかないです。
2つ目は、音楽を届けたり守ったりする姿勢が誇り高いところです。
たまに泥試合になって勝手に心配になるときもありますが、それも全部、大森さんが作った音楽や、それに携わった人、大森さんの音楽を好きな人、そのひとつひとつを大切にするためのことなのかなと。
大森さんが誰かと殴り合っているときほど、何かを守っているように思います。
3つ目は、「みんな」という匿名の塊でなく、ひとりひとりをひとりひとりとして扱ってくれるところです。

この2つ目に対して大森さんは、いつもより少し低い声で溜息のように「ありがとー」とコメントを添えてくれた。
私は、なんだか自分の「好き」が報われたような気持ちになってしまった。
「命の使い方」という歌詞から、私が失礼ながら「泥試合」と述べたようなあらゆる活動をひっくるめて「この世界に愛されたい」と歌っているように聞こえた。
それは切実な叫びであるとともに、「愛される」ことを覚悟している姿勢だとも思う。
愛されることは、私には怖い。
人に好かれるのは得意ではない。ましてや、自分のやることなすことを愛してくれと望むということは、その愛を受け止める覚悟の上なのではと思う。

愛する主体の違いにも着目したい。
「IDOL SONG」では「君」であるのに対して、「流星ヘブン」では「この世界」が「愛されたい」と願う対象だ。
アイドルの場合はファンである「君」から愛されるのだとして、「この世界に」愛されるとはどういうことだろうか。
私は、「マジックミラー」「『TOKYO BLACK HOLE 』収録)で歌われる"どうして女の子がロックをしてはいけないの?"といった世間が向ける眼差しによる不自由さに対して、愛されるために不自由を産む価値観そのものを変えることではないかと思った。
「命の使い方」は、大森靖子の命がけのあらゆる活動であり、大森靖子が変わるのではなく「この世界」を変えた上で「愛されたい」のではないだろうか。
(この「大森靖子が変わる」は後述する「小さな自殺」のことである。)

「命の使い方 この世界に愛されたい」
ただこの1行から私が汲み取ったものは、
重たくどろりとした覚悟だ。

a.命が消えるとき あの星は流れて光る

大森靖子の活動が命を使ったものだとしたら、使ったものは当然すり減る。
アクションゲームのライフよろしく消えて消えてゲームオーバーなんてことも、もしかしたらあるのかもしれない。
大森靖子が命をすり減らして、ライフを削って作り出した音楽が流れて光っている様を、私は想像した。
「流星」は命をすり減らして産み出された芸術で、それが流れて光る様を私は眺めている。遠い宇宙に死んだ星があり、地上にいる私はそれを「きれいだね」と言う。
超新星爆発の光が地球に届く頃、その星はとっくに消滅していると言う話を私は多感な高校生時代に教祖様(藤くん)から(ラジオで)聞いた。コズミックな感傷に浸ってしまいそうになるが、死ぬことについてもうひとつ。

「流星ヘブン」では生死に関する言葉が多く使われている。直接的な意味での生死も含んでいるとは思うが、ここでは「心を殺す」意味での生死に焦点を当てる。
かつて、外部の圧力によって(恐らく、特に信念や信条に関する)何かをなかったことにする、心を殺すことを「心の中の小さな自殺」と述べていたMCがあった。
が、どこの公式ライブレポートにも載っていないので私の妄想かもしれないし、本当だったとしても「都合よく好きな一瞬を永遠に」している行為に過ぎないだろう。まあ、あったんだよ、私の中では。

大森さんは、誰も気に留めないしもしかしたら本人も気づかない他人や自分の自殺に目を向けている人だと私は思っている。
気づかないもの、見過ごすもの、見て見ぬ振りをするもの、あって当たり前だと思われているもの、そのひとつひとつを防ごうと争ったり弔ったり、ゆりかごから墓場まで戦っている。
星が流れて光るとき、芸術が生まれるとき、私の大好きな大森さんの心の中で、小さな自殺が起こっていやしないだろうか。私はそれを見過ごしていやしないだろうか。
そんなことを思った。

ラブソングが幸せを願う "あなた"以外を救うため
私が君に会いに来た 君も私に会いに来た

テレビで流れる「ラブソング」に救われる人はたくさんいると言うのに、自分のことを歌っている歌はどこにもないような気がしたことはあるだろうか。
大森さんは「マジックミラー」(『TOKYO BLACK HOLE』収録)で「この歌私のこと歌っている」と歌っていた。これは、大森さんを聞いている私やあなたのことを代弁しているのだろう。
それなりに音楽を聴いて来たつもりだったし、好きなものもたくさんある。けれど、私がボロボロになっても手放すことのできなかった記憶を重ねることができたのは、大森さんの音楽だけだった。
「"私"以外」の人は音楽に救われているように感じる私のところに会いに来てくれたのが大森さんだった。私は大森さんを必要としていたし、大森さんは私のところに届いたのだ。

MUTEKI』の店着日、大森さんは以下のツイートをしていた。

必要としてる人に 必要な曲が届きますように

私が今大森さんの音楽を聴いていることは、「私が君に会いに来た」即ち「大森さんが、大森さんの音楽が必要な人目掛けて届けてくれた」からなのだろう。
それと同時に「君も私に会いに来た」と大森さんは歌う。私も大森さんに会いに行ったのだと教えてもらうことで、私が大森さんにたどり着いたことを頭を撫でて褒めてもらったような気持ちになった。

"ヘブン"

「流星」が命をすり減らして産み出された楽曲たちだとしたら、天国はその楽曲が行き着くところだ。
すなわち音源作品達、特にこの過去の楽曲がベスト的に収録された『MUTEKI』というアルバムが楽曲たちの天国、つまり「流星ヘブン」なのかもしれない。

a.アカウントを消して 仮想的に自殺する
自撮りは私の遺影 2ギガのムービーは走馬灯

「インターネット上で仮想自殺を繰り返す人」の話を読んだことがある。ネットだけの付き合いがある人に「あの子の家族です。あの子は自殺しました。今までありがとうございます。」とメールを送り、関係を終わらせていたという。
私は先日、長らく使っていたtwitterアカウントを削除した。インターネット上でしか私を知らない人からしたら死んだも同然であろう。生きてるけど。
自撮りと実物が別人のようであることは珍しく無くなったが、インターネット上で死んだあの子の遺影が自撮りだとすれば、死んだのは誰なのだろうか。思い出すのは、アオイロインターネットヒミツガールのことだ。
SNSは仮想の別世界の様相を濃くし、現実の私と仮想の私はもうとっくに別人なのかしらんと古いSFのようなことを思う。

数日間だが、大森さんがtwitterのアカウント削除したことがあった。その間「靖子ちゃんが今何をしているのかわからなくて寂しい」というツイートが溢れかえり、私は少し驚いてしまった。
私が寂しくなかったからではなく、私にとっては友達でもないミュージシャンがまさに今何をしているのかを知ることが出来る状況が特別であり、知らないことは平常運転だと思っていたからだ。プラットホームによってパラダイムシフトが起こるということ、知ってはいたつもりだがまざまざと見せつけられた。twitterを主としてSNSが変えたもの、大森さんがtwitterというメディアをどのように使っていたのか、そんなことを考えた。

走馬灯という脳の誤動作ともスピリチュアルな体験とも言える事柄が、「2ギガのムービー」と結ばれる言葉選びが私はとても好きだ。
大森さんは度々歌詞の中に「その時代を切り取る言葉」を混ぜる。ほんの少し前まで2ギガは途方も無い量だったはずなのに、「ムービー」という記録方法すらすぐ古いものになるのかもしれない。白黒写真がカラーになった時代を私は知らないが、ムービーがこんなに簡単に誰にでも撮れるようになるとは想像もしていなかった。
すなわち「2ギガのムービー」を「走馬灯」とできる時代は思うよりずっと短く、それだけ大森さんの言葉選びが鋭いものなのだろうと思う。
初めて買ったiPodは4GBで、「容量がヤバい!これだけあればなんでも持ち歩けるじゃん!MD何枚も持ち歩かなくていいじゃん!」と思ったのはつい10年前の話だ。
私はこういう事柄から大森さんと同年代であることを勝手に実感している。

一秒毎に私は死んで生まれ変わるから
一つ一つの死骸を拾って 愛して

最近、目に止まったツイートを引用する。

インターネットの普及がもたらした最大の害悪の1つは、「論破」したければ相手が一貫性を欠いているところを攻撃すればいい、という戦術を普及させてしまったことかなと思ってます。結果、自己の一貫性に病的なまでに執着する人の数を急激に増やしたな、と。

Twitter

大森さんに限った話ではないが、炎上騒ぎが起きると過去のインターネット上の発言を取り上げて「言ってることが違う」と責め立てる人を見かける。
私には「じゃあ貴方は死ぬまでバッドボーイの服だけ着ててね」程度の悪口しか思い浮かばないが、「一秒毎に私は死んで生まれ変わる」は、その風潮に対する一つの答えとして機能する。
「わたしみ」では、「9人も私をぶらさげている」と、同時に存在する自己の多面性を歌っていたが、ここでは時間によって変化することを宣言した上で、「愛して」と望む。

流星たる楽曲たちが命を消して、つまり死によってもたらされたものだとしたら、楽曲たちは大森さんから切り離された死骸だということなのだろうか。
(過去の曲は死体のようなものとテレビで言っていたような気がする。これを書くにあたって曲以外のインプットをしたくなかったので後で確認する。)
ライブで聴く曲が昔から歌われているものでも「死骸」と思ったことはないが、目の前で生きている大森さんから発されるのだから当然であろう。
けれど、私が持っているCDにも、もうこの世にいない人が作ったもの歌ったものがいくらでもある。それは作った人が生きていようが死んでいようが変化しない。
音楽はCDに閉じ込められた時点で、冷凍された死体としてパッケージされているのかなと、「死骸」という言葉を聴いて思った。

「死骸を拾う」と言われてお骨をお箸で拾った数少ない経験を思い出した。よっぽどの縁がある人だけだ。
私にとって「死骸を拾う」とは丁寧で思い入れの強い行為なので、大森さんから「死骸を拾って 愛して」と望まれているなら、私は嬉しく思ってしまうし、心して拾い愛したいと思う。
きっとこの文章も、拾って愛すことの一つだ。

余談だが、大森さんの発言に一貫性がないと感じたことは、あまりない。
一部分だけを悪意を持って意図的に切り取って付き合わせれば矛盾するものは勿論あるだろうが、抽象度を上げて考えれば根幹にある信念は揺らいでいないように私には見える。


流星"ヘブン"

素人の言葉遊びとして軽く捉えて欲しいが、この歌詞を「私」「流星」「ヘブン」の3つに分け、順に抽象度が上がるものと捉える。
抽象度を上げる、を「『大森さん』と『大森靖子という概念』」と言い換えてもいい。
「大森さん」は、例えば私がリリースイベントで一緒に写メを撮ってもらった白くて柔らかそうでニコニコ笑う可愛い私だけの存在だ。
その大森さんが紡ぐ「流星」たる曲たちは、歌っているのは大森さん1人でありながら、リリースイベントに集まった驚くほどの数の人、その一人一人に向き合うものとして届く。
同じ空間にいるとはいえ、私が面と向かって話した「大森さん」よりは具体性がなくなり、代わりにより多くの人に同時に刺さる「大森靖子」となり得る。
そしてその流星たちが行き着いた「ヘブン」である『MUTEKI』は、プレスされ流通に乗り私の家やあなたの家に届きそこにそれぞれの「大森靖子」が存在する。
この「大森靖子」は、私にとって一番抽象度の高い「大森靖子の概念」だ。
弾き語りを再録したことについて、今までの音源作成の経験を経て弾き語りを弾き語りの良さをもって音源化出来るようになったと思ったからといったことをラジオで聞いた。
それは「大森靖子の概念化」を高い抽象度で実現できるようになったということではないかと私は思う。
MUTEKI』に収録されている弾き語りの曲を聴いていると、大森さんが私の部屋で歌ってくれているかのように感じる。ツイキャスだって弾き語りのライブ録音だって聴いたことあるのに、初めての感覚だった。
CDがあればそこは「流星ヘブン」、あなたがいればここは東京。

私で魂ヌいてください

片仮名であることから、この「ヌく」が示しているのはオナニーのことだろう。
つまり「私をオカズとして、自分1人で魂を気持ちよくしてください」ということだ。
(私はいったい何を大真面目に書いているんだ。)
「魂をヌく」という行為が何を指すのか、まだ想像がついていない。
2017年6月23日に行われたツアー福岡公演で、私は過呼吸になるほど泣いた。酷く汚い顔だったのだろう、友達は苦笑し、大森さんはステージから指をさして笑っていた。そういう時に愛を与えられた気になってしまう。
大森さんのライブだからって毎度毎度泣くほど涙もろくはないけれど、あの時私は思いつめていたし、泣くことで晴れやかな気持ちになった。
大森さんは大森さんのままで歌を歌い、それを観た私が自分の都合のままに泣くこと、後付けだが、あの行為に名前をつけるなら「魂をヌく」がぴったりかもしれない。

消えてしまう前の私に 一瞬でもいい 追いついて

音楽は瞬間芸術であることを思い出す。
瞬きだって惜しい気持ちで歌っている大森さんを見つめている。
耳に届いた端から消えていく音をつかみ損ねることのないよう、心してライブを観たいといつも思っている。
そして、大森さんの活動のスピード感が好きだ。前日に報道されたニュースを元に弾き語りで即日披露された「春の公園」、の数日後に追いついてくるバンドサウンドは2015年のツアーでの出来事であり、私が大森さんに関する記憶の中で指折り大切にしているものだ。
その一方で、特にここ最近は立て続けのリリースに果たして自分が追いつけているのかと思うことはしばしばあった。
「流星ヘブン」から1ヶ月、これを書いている今にも突然新曲が公開されるのではないだろうかとすら思う。私は全然、大森さんに追いつけていない。それを見透かされているような歌詞に応えたくて、私はこれを綴っている。
消えてしまうものはなんだろうか。一秒毎に変わっていくのが大森さんだとしたら、一秒前の大森さんはもう消えてしまったのだろうか。
例えば「あの時の大森さんの気持ち」「あの時の大森さんの声」、前髪の1ミリのズレ、ひょっとしたら一秒で消えてしまうかもしれないものに追いつくには、私はどうしたらいいのだろうか。大森さんに追いつけることが一瞬でもあるだろうか。
思えば歌っている大森さんと目が合った時、タワーレコードなんば店での"大丈夫な日の私だけを見つめてよ"、あの時は全部が繋がっているような心地がした。あの一瞬を逃さないように、追いつけるように、私は私の暮らしを重ねていくしかないのだろう。

天国はそこらじゅうにある ただそこらじゅうで爆破する
死ぬことが人生において唯一の結果なのだから
優勝が欲しいなら 今ここで どの私を殺そうか

前作『kitixxxgaia』や、「君と映画」(『絶対少女』)などで誰でもなれる自分だけの神様について歌われきたが、ここで「天国」という言葉が登場する。
この歌詞は消化できていないので保留。

音楽での成功は続けることだけと何時ぞや(2017年2月22日のラジオだったと思う)話していたが、大森さんが死ぬまで歌い続けるかどうかは大森さんが死なないとわからないし、仮に双方老衰を迎えた場合、私は大森さんよりギリギリ先に死ぬかもしれない。ウケる。
かつて、二次元の好きなキャラクターがいつも死んでしまうという人から「でも、好きな人の死因が知れるんだよ?」と言われ、目から鱗が落ちたことがある。確かに、天化の死因は知っているけれど水野くんの死因は知らない、知りたくないけど。
なぜ突然死因について考えたのかというと、「流星ヘブン」に登場する「死」の中で、この箇所だけがやけに生身の「死」の匂いがするからだ。
好きな歌手でもバンドマンでもアイドルでもいいが、デカダンスなコンテンツとしての「死」をコンセプトとするものはあるし、ロックスターは27歳で死ぬ。もうすぐで28になる?もう30だよ。
インターネットの住人はアカウントを消せば死ねるように、ステージに立つ人にとっては引退と社会的な死はニアリーかもしれない。
けれど、大森さんのいう「死ぬまで続ける」からは、命が消える死のことを思う。
生身の人間が今作り出す瞬間芸術に触れると、生きていることがすごい速さで過ぎ去っていく。それは即ち死に向かって進んでいるのだという実感で、生の実感はきたる死を意識しなければ得られない。
死ぬまで繰り返す、死ぬまで繰り返す、と、薄暗い穴のようなステージで歌っていた大森さんを思い出す。2013年4月、京都ボックスホールでのこと。私はいつか死ぬし、大森さんもいつか死ぬ。このごく当たり前の事実が少し理解できた気がする。

「優勝」と聞くと暇な女子大生さん(好き)のことを思い出すが、それは置いといて。
私はこの個所で「セルアウトするなら心はねじ曲がるけどわかってるよね、」と確認されているように感じた。そしてそれは、俯瞰的な態度だと思っている。

最初から希望とか歌っておけばよかったわ
(「TOKYO BLACK HOLE」/『TOKYO BLACK HOLE』)

愛とか平和とか歌いだす前に 早く一番をちょうだいよ
(「私は面白い絶対面白い多分」/『洗脳』)

大森さんは音楽を広く届けるため様々な活動を重ねているが、届けたいものを変質させることはないと私は思っている。それは大森さんを求める私(とあと知らんけど他の人)のためであると同時に、大森さんの音楽を必要としているまだ大森さんにたどり着いていない誰かのためだ。
私を殺さないまま優勝すること、それは前述の「この世界に愛される」ことに繋がる。

それと同時に、今まで大森さんが殺さざるを得なかった大森さんにも思いを馳せる。私には知る由もないし知る必要もないが、大森さんが大森さんや大森さんと音楽を作る人や大森さんのことを好きな人のために殺してきた大森さんだって、きっといるのだろう。
私が勝手に想像して勝手に悲観する必要はないが、今自分の手の中にある作品とは、できる限り真摯に向き合いたいと思った。

a.叫びを閉じ込めたその部屋こそが居場所だろ
a.不幸に守られた 君を引きずり出したい
アイから目をそらすなよ 狂気に化けた夜にこそ

大森さんが「部屋」というと私はすぐワンルームを連想する。
既存曲でいっとう好きな歌詞は「歌謡曲」(『魔法が使えないなら死にたい』)の「お気に入り 使い古した絶望」だ。「絶望」に添えられる「お気に入り」という柔らかい言葉の組み合わせは、私の思う大森さんの優しさを象徴する。
「不幸に守られた」にも同じ印象を持っている。例えば「私なんて」と自虐で武装すること、自責に走ることで他者との対立を避けること、それは自分を守っているのだとわかっているから「不幸」に「守られた」という言葉が続くのではないかと思う。
その上で「引きずり出したい」と歌ってくれることは、単に「あなたは悪くないよ」「落ち込まないでいいよ」と言われるのとは全く違う安心を私に与えてくれる。
「アイ」は片仮名で記される。掛詞だとしたら「I」と「愛」だろうか?
以前大森さんのプロフィールに「エゴサは愛」と書かれていた。ともすれば悪口にもリプライを送ることをよく思わない人も世の中にはいるのかも知れないが、わざわざ自分を嫌いだと述べる人に向き合うことは、相手が好きでなければできないんじゃないだろうか。
私なんて、ただごく普通のリプライを送ってくれた人を即座にブロックしていた。
狂気に化けるものはなにか、アイ?
愛が狂気に変わるだなんてメロドラマのようだけど「憎くなければ愛ではない」と思っているので、愛が狂気に化けることもあるだろう。

自分を肯定するための第一段階は、今の自分を認めることだ、と聞く。
言いたいことも言えずに閉じこもった部屋、不幸を貼り付けることで傷つくことを避けるような暮らしに心当たりはあるか。私はある。その現状を良いも悪いもなくただそれがあると指摘されることは、それだけで救いだ。

生きる方を選んでく 生きるほうを選んでく

"ヘブン"

流星"ヘブン"

歌詞カードでは「私」と「流星」で改行が入るが、音楽だけ聴いていると「私、流星」という区切りに聴こえる。
流星のイメージ、光って消えていくもの、そう言えば私は流れ星を見たことがない。大森さんは流星なのかな、光ってすぐ消えたら嫌だな、でもゆくゆくはヘブンに集まるのかな、そういえば銀河鉄道から流れ星は見えるのだろうか。どうしてカムパネルラが死ななくてはいけなかったのか私には今も理解できない。

私の魂みてください

「いのち」と「命の使い方」と「魂」は似て非なるものだ。
「命の使い方」が、超歌手としての創作物やそれにまつわる活動だとしたら、「魂」は大森靖子が芸術や世界に対してもつ姿勢や態度のことかなと思う。(「美学」はしっくりこない)
『洗脳』発売時は「脳を洗う」だけでなく「見せ合いっこ」と話していたと記憶しているが、ここでは「魂みてください」と開示してくれているのだ。大森さんはよく「アイドルは好きになることを許してくれる」と話すが、大森さんは魂をみることを許してくれる。「命の使い方」だけでなく「魂」まで、大盤振る舞いだ。
私が大森さんが大森さんに出会ったのは多感な時期も過ぎ人生観も価値観もそれなりに出来上がっていた頃だったので、あの頃好きだった誰か程は私の根幹には影響を及ぼさずむしろ似ているところを見つけたいだけなのかなとも思う。
影響が少なくとも、大森さんの生き様を見ているとそれだけで「ああ私も生きようかな」と思う時がある。大森さんは超歌手だから、音楽にまつわること以外を求めるのは無粋だといつも思っているのにそれ以外に触れたいと思うことがやめられない。けど大森さんが「魂みてください」と言ってくれているのだから、みる。

誰かのためだなんかに 死ぬことなんて許さない
口パクで愛してるなんて 誰でもいいならここに居て
都合よく好きな一瞬を 永遠にされるのが怖い
君が他界したあとも 私の命は続く

思い出すのは高校時代に読んだ寺山修司『青少年のための自殺学入門』、外因によって死を選ぶのは自殺ではなく他殺であると説くこの本を読んで、私には『巌頭之感』は書けやしないから死ぬのはやめようと思った。
メジャーデビューシングル「きゅるきゅる」では「誰でもいいなら私でいいじゃん」と歌っていたが、「誰でもいいならここに居て」とは、より強くかつ直球の願望だ。
「でっかい愛をあげる」が1を100にするとしたら、死ぬことを許さずここに居てと望まれることは0を1にする。

一瞬を永遠にされること、例えば動画のスクリーンショットは本当に簡単に取れるのでいい感じでない顔だっていくらでも用意できる。今まさに何かを表現している人たちは本当に大変だな、と思うことがある。意図的に半目の画像なんて作られたら、私なら寝込む。
ツイートの一部だけを切り取られて拡散されることだってそうだ。前後関係に文脈、背景事情、少し考えれば存在しているに違いないものを無視して一部しか見ない人は怖いし、きっと私もどこかで同じことをしている。
それは当たり前に「怖い」ことだろう、想像力の欠如は恐ろしい。私の想像力は足りているか?

この「他界」は「死ぬ」だけでなく、アイドル用語としての「ファンをやめる」の意味も含まれているのだと思う。
アカウントの削除による仮想的な自殺もそうだが、ネット上以外で関わりがあっても所謂「現場」に行かなくなればその後の生死がわからなくなることはザラだ。
私が例え大森さんを見に行かなくなっても、大森さんは生きていくのだ。今のところ想像はつかないけれど。

ステージに立つ側と見る側は奇妙な関係だ。
私は、ステージから与えられるものはそのまま受け取るもので、それにとやかく文句をつけるくらいなら受け取らなければいいと思っている。運営に過剰なイチャモンをつける人が好きじゃない、ということ。
そして私は大森さんを選んで大森さんを聴いているが、ある日突然私が大森さんを聴かなくなっても、大森さんがそれを引き留める手立てはきっとないだろう(いや、引き留めないと思うけど)。双方に主体性はあるけれど、パワーバランスは均衡とも並行とも思えない。「他界」するもしないも当然だが私次第だ。
「命は続く」は他界した人への恨み節ではないだろう。たとえ短い期間であっても人生が交わった人の命が続いていることについて、私はもう少し、たまにでいいから考えた方がいいかもしれないと思った。ハッとしたのだ。私が縁を切ったあの人もあの人もあの人も、生きてたり死んでたりするのだ。
大森さんを通り越して万物の生命に思いを馳せてしまったが、「推し変したあの子にも卒業したあの子にも、その後の人生があるんだよ」と胸ぐら掴んで言い聞かせてやりたい。

喉が渇いたけれど 汗よりも涙よりも
からだのある わたしを 魂で射抜いてください

命を消し魂を見せつけ概念になりゆく大森靖子を作るのは、大森さんだ。大森さんをすぐ神様や天国にしてしまいそうになるが、「からだのあるわたし」というフレーズをここで受け取る。からだがある生身の人間だからこそ、こちらも投げ返せるものは魂なのか。射抜けるのか。
この文章は「流星ヘブン」の歌詞は「大森さんから私(とか他の誰か)へ」のものだという前提でここまで書いてきた。そんな気がしたからだ。
だとしたら「射抜いてください」と言われているのは私(やこれを読んでいる誰か)に他ならないが、「愛して」「ここに居て」に続いて「射抜いて」だ。大森さんはライブを観ている人の表情の豊かさをたまにMCで話すが、その時私は自分がその場にいることの責任というか、自分が匿名ではないことを感じる。
笑いたければ笑えばいいし、つまらないとき無理に楽しそうにしなくてもいい、あと私はステージの上から与えられるもの以外いらないので、「盛り上げないと」という気持ちは全くないが、私が受け取れたものや返したもの(汚い顔で泣く、とか)が、大なり小なり外部に影響してその場が作られるのだとしたら、私は匿名ではなくて、私にとって大森さんが大森さんであるように、大森さんにとっても私も私なのかな、と思った。
なので、射抜かれたら射抜き返す双方向が、たまにでいいから出来たらなと思う。

もうね、これ1万字くらい書いてるから段々ポエムってきてて、でも本当にこう思ってるんですけど、急に恥ずかしくなってきたっていうか、お茶を濁したくなってきて、つまりこちらの魂を投げ返す自信がなくて、今書いてるこれも自分でやらせっていうか、陶酔してない?感じたことを言葉にしてる?頭使ってない?でっち上げてない?って思いながら書いてるんですよ、射抜けてますか?大森さん。答えてくれなくていいけど。

消えてしまう前の私に 一瞬でもいい 追いついて
天国はそこらじゅうにある ただそこらじゅうで爆破する

死ぬことが人生において 唯一の結果なのだから
優勝が欲しいなら 今ここで どの私を殺そうか

「流星ヘブン」の歌詞は、私が好きな大森さんのあり方が随所に込められているように思う。繰り返し読んだブログやインタビューで述べられていたことが直接的ではない言葉選びで綴られる歌詞は私にとっての大森靖子像と一致するもので、私の思う「わたしみ」ならぬ「大森さんみ」はこの「流星ヘブン」に集約されている。
なので、時間にすれば数分のこの曲を聴くたびに私はこの数年の間に大森さんを観てきたこと、大森さんの考えに触れてたこと、その間の私に起きた出来事、様々なことを思い出す。

もし大森さんが「この歌詞は私っぽくない誰かを想定して書いてまーす」と言えば、私の思う「大森さんみ」はてんで的外れなものだということになってしまう。全然追いつけてない。駄目じゃん。
願わくば私の思う「大森さんみ」と大森さんの思う「わたしみ」が少しでも重なってほしいし、今重なっていなくとも私は自分が大森さんの音楽に惹かれる限り、大森さんへの理解を諦めたくない。

「わたし」を構築する「わたしみ」、「わたし」が構築した「わたしみ」

大森靖子「わたしみ」Music Video - YouTube

大森靖子ちゃんの新曲「わたしみ」が公開されたので、
「わたしみ」という言葉と、「わたしみ」の歌詞について思ったことを。

「●●み」という表現
私が初めてこの表現を見たのは「バブみを感じてオギャる」という構文だ。
詳しいことは正直わからないのだが、二次元のキャラクターの母性ある様に対して「バブみ」=「赤ん坊のような気持ち」を覚え、「オギャる」=「赤ん坊のような行動をとる」ということだと理解している。
(これを目にしたのは女性のキャラクターに対する男性の発言だったと記憶しているが、
その後男性キャラクターの幼い様が「バブみある」と評されていたときは、
「まるで赤ん坊のようだ」と、赤ん坊である側が入れ替わっていたこともあった。)

この「バブみ」が示すのは、単に「お母さんみたい」「母性を感じる」という、実母の顔が思い出されるようなたまひよ的価値観ではなく、
特定のコンテンツを好む集団、所謂「界隈」では共有される心情であり、
それを端的に表した新しい表現だな、と目を見張ったのを覚えている。
(なおただの好みと美学の問題だが、「界隈」という表現は余り好きではない。)

ここから、「●●み」という表現は、
「特定の集団が共有する狭義」と解釈している。
同じ言葉であっても集団や時事によって変動する。割りかしハイコンテクスト。

「死にたい」と「死にたみ」
では、大森さんの遣う「●●み」について考えてみる。

大森靖子「ピンクメトセラ」MusicClip (short ver.) - YouTube

感染ルートは僕の下書き保存
ナチュラルな死にたみを吸い込んだリンゴさ

「ピンクメトセラ」の歌詞には、往年の「ポケベルが鳴らなくて」に代表されるような時代を切り取った言葉が投げ込まれている。
クラウド化」「拡散希望」、携帯メールアドレスを変更した時の「一斉送信」がピンとこないであろう世代に思いをはせる。
「下書き保存」で思い浮かぶのはtwitterの下書きだ。
twitterで面白いのは人のファボ欄と下書きだと思っているし、
私の下書きだってtwitterに投稿したものや1分以内にツイ消ししたのに誰かにスクショされたであろうあれやこれよりもよっぽど面白いものが詰まっている。
ここで下書き保存される「死にたみ」は「死にたい」でも「死にたさ」でもなく「死にたみ」なのだ。
ナチュラルな死にたみ」、考えを捏ねくりまわすことなく、ごく当たり前に感じられる「ああ、死にたいなあ、多分別に死なないけど、」という気持ち、私の場合は。
心当たりのない人には全くないだろうし、
「あの時の気持ちって、死にたいでも消えたいでもなくて、『死にたみある』だな」と思う人もいるだろう。
twitterの仕様は確認していないが、下書きはクライアントアプリ毎に違うものがあるので、
きっとクラウド化されることなくローカルなアプリのデータとしてリンゴマークのついたiPhoneに保存されているのだろう。知らんけど。

「お前に何がわかる」を軽減する「わかりみ」
「バブみ」や「死にたみ」は特定の集団で共有可能な狭義を持つとして、
「わかる」と「わかりみある」は何が違うのだろう。

「とか」「的な」を筆頭とした、断定を避ける表現が若者の間で増えています、と言われたのは今から15年ほど前の中学生の時だった。
「わかりみある」から私が感じるものは、
「すっかり全部共感できているかといわれると断言できないが、同じ考えの部分もある」や、
「完璧とは限らないが、自分としては理解できているつもりだ」という、
「わかる」から一歩引いた状態だ。
私は面倒臭い人間なので、相槌としての「わかる〜」が大嫌いだが(わかってたまるか、といつも思っている)、
「わかりみある」と言われたら「ちゃんと日本語喋れよ」と思うものの「お前に何がわかる」とは思わない、ような気がする。
思うかもしれんけど。

なので、この「わかりみ」から、「●●み」には「(○○もあるし●●もある上での)●●」という、
他にも可能性があることを含んだ、曖昧な余地を残した表現では、とも思っている。

好意が先か属性が先か
「○○属性」の話。
コンテンツの消費者として「○○属性がある」というときには、
「○○という類のコンテンツを好んでいる/享受することができる」を示すことがある。
反対に、消費の対象に付く「○○属性」は、「よく好まれる特徴の一つである○○を備えている」ことを示す。
ツンデレ属性、ドジっ子属性などだろうか。
私には「幸薄属性」と「不憫萌え」が備わっている。

なぜ突然、属性の話を始めたのか。
最近、中学生のころ好きだった漫画が相次いでリメイクされることになり、各作品の中で一番好きだったキャラクターを並べ立ててみたところ、
ファンダジーでも現代ものでも時代ものでも変わることなく、全員に共通する「属性」があったからだ。
そこから、私は、一人一人が好きなのではなく、自分が元々好ましいと思っている特徴(イコール属性)に最も当てはまる人を探していただけなのではないか、と思った。

これはあくまで私の話なので、そうでない人も勿論いると思うが、
複数人からなるグループのうち「推しメン」を見出すのもそれと似ていて、
自分の属性に最も一致するのはどのメンバーなのか?と詮索しているだけなのかもしれない。

これは「1グループにつき推し1人」「1作品につき嫁1人」で、
推しを決める瞬発力の高い自分にとっての話なので、必ずしもそうでない場合があることは想像している。

2秒で伝える「属性」
特定のグループを応援しているわけでもないが、
アイドルのライブを何度か見たことがある。
その中で自己紹介が「はーい!」や「はいっ」や「はい…」から始まるのをよく見かける。
大森靖子ちゃんの「IDOL SONG」でも、個性豊かな「はい」を聴くことができる。
(個性豊かといっても、全部、大森さんなんだけど)

グループの、各メンバーの「個」が最も現れるのがこの自己紹介および「はい」であり、
私はこの「はい」を「属性の提示」だと思っている。
「私はこのようなアイドルなので、それを好ましいと思ったら好きになってください」と2秒でプレゼンされているような気分だ。
2秒で個を伝えるアイドルと、2秒で好きかを判断する消費者、
消費者の中にある「属性」との一致、もしくは消費者に新しい「属性」を追加できるか、
それにより、誰かを好きになっているのかもしれない、と思った。
(好きになるところはたった2秒の「はい」だけではなくて、
ステージやSNSやメディアや対応など色々あるのは知ってはいるが、
その個性の象徴で最も濃縮されたものが「はい」なのかな、と思っている)

好意が先か、属性が先か。
私は私のことをいつも疑っているので、「私は本当にこのコンテンツが好きなのか?たまたま条件に一番当てはまる人を仕方なしに選んだのではないか?」と思う時がある。
「好みの作品」があるのは喜ばしいことたと思うが、「これはこういう属性だから私はこれが好きに違いない」という自己暗示にかかってはいないだろうか、と不安になることが、たまにある。

「わたし」と「わたしみ」
ようやく「わたしみ」の話をする。

「わたしみ」とは一体なにか。

まず、「わたし」を、この歌を歌っている大森さんだと仮定する。

先立って捏ねくり回した理屈に則ると、
「わたしみ」は狭義の「わたし」であり、
「わたし」の中の全てではないが一部分、といえる。
つまり、「わたしみ」とは「わたし」を修飾する様々な要素や属性ではないか、と考える。

私の知っている大森さんは、歌が上手くて、理屈が通っていて、人と一対一で向き合う、あげだすとキリがないが、まあ、たくさんある。
そして、私の知っている大森さんは、あくまで「超歌手 大森靖子」として大森さんが提示したものであり、それは決して「大森靖子さん」というどこかで生きる個人ではない。
そもそも、今の戸籍の名前とも違うらしいし。
「超歌手 大森靖子」と「大森靖子さん」は集合の図のように重なり合うとして。
その集合の図の○の中に小さい○を書いたもの、それが「わたしみ」のイメージだ。

誰も知らないわたしみ 誰にもあげないわたしみ

私の知っている「超歌手 大森靖子」の外にあって「大森靖子さん」の内にある「わたしみ」は、当たり前に存在する。
「超歌手 大森靖子」が「わたしみ」として世間に提示するもの、しないもの、
(それは「はいっ」に込められるものだ)
大森靖子さん」が「わたしみ」として周囲の人に提示するもの、しないもの。

歌を聴いて、メディアで語られるものを見聞きして、SNSや握手の際に話して、
私にとっては提示される大森さんが全てだが、沢山の「わたしみ」を享受しているうちに、
「誰も知らない」「誰にもあげない」ものがあることを、うっかり見失いそうになる。
当然ながら存在するそれらのことを、「わたし」ではなく「わたしみ」という表現が示唆してくれているように思った。
「●●み」がもつ、他の可能性を示唆する特性によるものだ。

パブリックイメージとしての「わたしみ」

消したい過去がわたしみ 強くなりすぎたわたしみを
わたしがしあわせにする

先日大森さんがラジオで「今の私は今までの私を含んでいる」という趣旨のことを述べていた。
それはつまり「消したい過去」であっても、「わたし」を構成してきた部分である、ということだろうか。

「●●み」は、「特定の集団が共有する狭義」と解釈したが、「わたしみ」にその解釈を当てはめると、
「特定の集団がもつ大森さんの特定の要素、イメージ」ではないかと考える。
悪意のある他者からの「サブカル」「メンヘラ」、好意的な文脈で用いられる「病み」、
私の知っている大森さんは超歌手でエネルギーなので病んでないけど、まあ、そういうやつとか。

この「強くなりすぎた」から2つのイメージをもった。
ひとつは、「強い大森靖子」。
私としては好意的に大森さんのことを「強い」と思うことは多い。
例えば、悪意を絶対にスルーしない優しい力、「つよいなあ、」と感嘆する。
けれど、私が想定する「超歌手 大森靖子」の強さは、果たして大森さんが提示したい強さと見合っているのか、
そしてそれは「大森靖子さん」に見合っているのか。
そんなこと私には知る由もないが、私は勝手に大森さんを強くしすぎたことはないだろうか、と、この歌を聴いた時に思った。
もうひとつ、「大森靖子さん」を凌駕する「超歌手 大森靖子」。
「わたしみ」が、コンテンツとして提示される属性だとして、
コンテンツである「超歌手 大森靖子」の属性が、元々は主体であったはずの「大森靖子さん」に食い込むことはあるのだろうか。
私は消費者なので「超歌手 大森靖子」を求めているが、それは果たしてその範囲に収まっているだろうか。
「超歌手 大森靖子」に「大森靖子さん」を求めたり、越権して「大森靖子さん」を求めたりはしていないだろうか。
大森さんがその2つをどの程度分けているのかは知らないが、私はそれらをいつだって線引きしたいと思っている。
それができているのかは、わからない。
「超歌手 大森靖子」が「大森靖子さん」に食い込むとき、それは「わたしみ」が強くなりすぎたときではないだろうか、と振り返り、
せめて私はそれに加担しないように、と思った。

「わたしみ」はパブリックイメージとしての自分や、その要素ではないかと思う。
それは、提供する側が「こういう『わたしみ』を届ける」と規定したものであると同時に、
「わたし」自身にも大なり小なり影響するものだと解釈した。
そしてそのたくさんの「わたしみ」を抱えた「わたし」の全てを知る人は自分自身になく、
故に「わたし」をしあわせにするのは「わたし」なのだなと思う。

多面体「わたし」

薬指の心を 運命とかにあげても
わたし 残り9人も わたしをぶらさげている

左手の薬指といえば結婚指輪だ。
結婚が運命だとして、それを左手の薬指に象徴したとして、
手の指はまだ9本残っている。
「結婚して、しあわせになって、表現が丸くなった」という批評はクソだと思っているが、
それに対するアンサーとしてこの歌詞をくれたのだと思った。
結婚した、運命だったとしても、
「わたし」はそれが全てになるのではなく
他のわたしをぶらさげることが出来るのだと、鼓舞される気持ち。
例えば母になったからといってロックを諦めなくてもいいような、
大森さんが実践してくれたことを想起するこのフレーズが、私はとても好きだ。

私の「わたしみ」
ここまで「わたし」を大森さんとして考えてきたが、
今までの理屈は抽象化して私自身に当てはめることもできるだろう。

自己開示が下手だし全部を知らせることは怖い。
ならば私が「わたし」をしあわせにしてあげたらよいのでは、
私が「わたし」をわかってあげればよいのでは、
今はそんな気持ちだ。

理解を諦めない

高いアイスが好きで 誤解されやすくて
バカなやつの理解を すこし諦めている

ハーゲンダッツは大好きだし、
ゴディバデカダンスも大好きだし、
そしてパルムは美味いよね。

世の中全てと解釈違いを起こしているので、誰が大森さんについて語っているものをみても
「そんなことねーよ」と思っているし、
私が散々こねくり回したこの文章だって全部誤解かもしれない。

大森さんが「すこし諦めている」というのなら、
私は諦めないで大森さんのことを想っていきたい、
と思い、これを書いた。

大森靖子「わたしみ」Music Video - YouTube

愛人形と偶像崇拝、消費されないものはなにか

オリエント工業40周年記念展「今と昔の愛人形」を観に行った。
オリエント工業40周年記念展「今と昔の愛人形」 | Schedule - スケジュール | アツコバルー ATSUKOBAROUH arts drinks talk

ラブドールの思い出と、感想、あと考えたことをつづる。

平々凡々な女子大生だった私が「オリエント工業」の存在を知ったのは、平々凡々に映画「空気人形」だ。
『空気人形』予告編 - YouTube
初めて映画館に一人で観に行った映画。
同じ監督の「ワンダフルライフ」がね、日本の映画でいっとう好きでね。

映画が公開された頃、それまであまり明け透けな性の話をすることもなかった同じゼミの女の子数人と、研究室でオリエント工業のカスタムオーダーのサイトを見た思い出がある。
ラブドールってなに?」「ダッチワイフだよ」「なにそれ?」という会話をした覚えもある。
面倒なので説明はしなかった。
私は一体どこで「ダッチワイフ」という単語を覚えたのだろうか。
多分「ROCK20代 勝手にしゃべれ場⁉︎」だと思う。
ともかくみんな口々に「すんごい美人だね」「可愛い」と言っていた。

長野まゆみを読み耽っていた私にとって「人形」といえば三日月少年や球体関節人形だったが、ラブドールたちの儚い表情を美しいと思った。
こんなに美しくお金がかかり手間もかかるドールを所有することは、単なる性の欲求を超えたものがあるのではなかろうか、と想像した。

ちょうどその頃、一般教養の講義で偶像崇拝のことを学んでいた。
専門でもなく半年の講義で学んだうろ覚えの話だが、ものすごくざっくりいうと西洋と東洋、人形をただの物として捉えるか、無機物を超えたなにかとして捉えるか、というのが主な議題だった。
よく覚えているのは、西洋のどこぞの国で買っという「街中にあるたまたま顔に見えるもの」の写真集を見せてもらったことだ。
コンセント、上から見た消火栓、壁のシミ、たまたま人の顔に見えてしまう何かを、「なんとなく不気味」と思うか「顔に似てて面白いけど、それだけ」と思うか。
偶像はあくまでただの外っ側で本質を持たないものと捉えるか、形を与えられた以上はなんらかの意味を持つのか。
それらを踏まえて、このラブドールたちにはきっと「機能」以外の「役割」があるのかもしれないな、と想像した。
私はその役割をぬいぐるみに託しているが、話し相手になってくれるのかな、とか。
壁と話すよりは話しやすい。


さて、オリエント工業展。
「人造乙女美術館」などは知りつつも機会がなく、今回初めてドール達と対面することができた。

ほぼ撮影可能であったが写真を撮らなかったので友人の撮ったものを転載する。許して。

美しい。
顔の絵付けの工程も展示されていたが、まさに「メイク」という感じであった。
やはりノーズシャドウは重要である。
足の裏や膝の裏の血管がとても綺麗で驚いた。
こんなに綺麗な血管を持つ生身の人間は、それこそ透き通るような白い肌と恐ろしく華奢な肢体を持つ女の子だけだろうと思うと、何もかも得難い美しさだった。

一番印象に残った展示物。

アダルトグッズラブドール

まず先に、アダルトグッズそれ自体には、残念ながらいい印象を持たなかった。
バナナを模したケースのものを見て、何が悲しくてバナナを体内に入れなければならないのか、ギャグじゃん、と思った。
(バナナを体内に入れたい癖の方がこれを読んでいたら申し訳ない)
(余談だが私はバナナが全く食べれない。)
一番びっくりしたのは、ふくらはぎに巻きつけられた、先端に洗濯バサミのようなものがついたチェーン鈴が付いていたことだ。
シャンシャン鳴りますやん。
まあでも、鈴の音は景気がいい。

どれもこれも色と形はポップでキャッチー、見た目が重視されているのだろう。
展示物なので当たり前といえば当たり前なのかもしれないが、会場内に所狭しと並べられたドール達は美しく、尚且つ実用品であるのに対して、馬鹿馬鹿しい外見のグッズがアンバランスに思えた。
これらが実用的なのかどうか見た目からは計りかねるが、少なくともバナナは嫌だなぁと思った。

その次に、「ドールとアダルトグッズ」という組み合わせについて考えた。
写真右の赤い筒、漫画「アラサーちゃん」によるとこれをインテリアとして部屋に飾る男性がいるらしいが本当なのだろうか。
こちらも実物を初めて見たが、確かにお洒落だった。
これにアダルトグッズが挿入してあったらどう思うだろうか。
想像してみた。
それとこれとで簡潔する世界がそこにあるのかもしれないが、一体何が伝えたいのかは今ひとつわからない。

では、ラブドールアダルトグッズの組み合わせはどうか。
ドール自体を道具にカテゴライズしたとして、そのドールをさらに道具であるグッズの使用者とすること、
それは「相手にグッズを使用したい」「グッズを使用している相手が見たい」という主体的な欲求を満たすものなのか、
それとも「ドールのためにグッズを用意した」という献身的な態度なのか、
ともかく、あの赤い筒とグッズの組み合わせにはない目的があるように思われた。
単なる展示でありドールの所有者はそんなことしないよ、という話になるのかもしれないが、とにかくあの展示が一番印象的だった。


ところで私はよく「それを売りにしていない相手を性的に消費すること」に対して怒っている。
ギャラリーストーカーとかね。

しかし今回の展示は、「綺麗なもの」を見たくて足を運んだ。
ドールたちは生み出された意図が純然たる性的なものであり、それをその消費者たり得ない私は覗き見しているようなもので、
「売りにしていない」ものを消費しにいったのは私の方だった。
ややもすれば消費に対してヒステリックになりがちな私が、ドールに惹かれる理由はなんだろうかと考えたが、
ドールは大切にされているからかな、と思う。
「生きている女より余程手がかかる」と聞いたことがある。

初めてドールに触ることもできた。
ドールに挨拶し、握手し、「失礼します」と述べて太ももを触り、腕を触り、耳たぶを触り、握手し、挨拶して帰った。
腕には、何かで聞いた通りベビーパウダーがはたいてあった。
私の全身にベビーパウダーを毎日くまなく丁寧にはたいてくれる人はいるだろうか?
多分、いないだろう。

陳腐な言葉になるが、ドールの歴史や展示、作成過程にも、ドールへの愛情が感じられた。
一方的な消費ではない、献身があるように思った。
なにより、ドールはどれも美しかった。

ショールームにずけずけと足を踏み込むような無粋な真似はできないので、今回、間近でドールを見て触る機会があり、とても嬉しく思った。

大森靖子ちゃんが、「あゆが好き」と言うことについて

あゆ、浜崎あゆみ
歌手というかアーティストというか、むしろ「歌姫」だ。

「あゆが好き」と大森さんが言っているのを初めて聞いたとき、多分2013年、3つくらいの意味で驚いた。

ひとつめは、インディーズのミュージシャン(当時)が、こんなにメジャーなJ-POPアーティストを好きだと言っていることへの驚き。
(今は「avexの超歌手」だ)

あの頃と、言ってもほんの数年前だが、大森さんは地下のライブハウスで夜な夜な弾き語り、レーベルも自主で、物販にはプレスのCDと家で焼いたと思しきCD-Rが並んでいた。

私の知っているごく狭い範囲での話だが、2000年代後半から大森さんに出会うまでの間で私が見聞きしていた「インディーズのミュージシャン」は、インタビューやブログなどで「洋楽と、マイナーな日本の古いバンド」以外を好きだとはあまり公言していなかった。
最近は「ナンバーガールは好きだけど、ちょっとディストーション踏んだらすぐ『ポストナンバガ』って言われる」、
「ちょっとエモい感じの女性シンガーは全員『劣化版椎名林檎』って言われる」と、大森さんやそれ以外のミュージシャンから聞くようになったし、「GLAYが好き」「ラルクが好き」なんて公言することも珍しくないが、少なくとも2006年ごろでは考えられなかった。
(なぜ2006年かというと、私は2006年に大学の軽音部で「ELLEGARDENが大好きです!」と言って馬鹿にされたのを根に持っているからだ)
(だから、同級生が小さい声で、「俺、ポルノグラフィティハルイチが好きでギター始めたんだ」と言ってくれたことを私はずっと覚えている)

その中で、一足飛ばして、「あゆ」!
あゆがいいとか悪いとかではなくて、「ミュージシャンが『あゆが好き』と言うこと」そのものが、私の知っているクソ狭い世界の中ではありえないことだった。
びっくりした。モーニング娘。が好きだと言っていたことよりもずっとびっくりした。

もうひとつの驚きは、あゆが、「好きだった」ではなく、「好きだ」と言っていること。

大森さん(と、私)が中学生だった2000年初頭、あゆは今この2017年の誰と比較していいのかわからないほど売れまくっていた。
テレビにはいつもあゆが出ており、私はあゆのCDを1枚も持っていなかったがカラオケで歌える曲がいくつかある。
そのくらい、街にはあゆの音楽が溢れていた。

しかしその後、高校生になった頃には、なんとなく「あゆダサいじゃん」という空気が流れていた。
「かけがえのないマグマ」にも似たようなことが書いてあったので、おそらく全国的な話なのだろう。

「ずっと聴けるアーティスト」という話を聞いたことがある。
学生の頃聴いていて、大人になっても聴ける(聴いていると公言できる)ものだ。
例としてあげられていたのはミスチルで、歌っていることが「学生の聴ける歌詞」から「大人の聴ける歌詞」にシフトしていくことで、「大人が聴いても恥ずかしくない」J-POPになる、とのことだった。
ミスチルくらいのキャリアにその論法が通じるのか疑問だが、それは置いておく)
つまり、「一緒に変わっていくこと」が、ずっと聴けるアーティストの条件だとして、あゆはいつまでもあゆだ。
例えば中学生の頃好んで着ていた服を着なくなるように、「あゆ、中学生の時ちょー好きだった〜」と聞くことはあるものの、「あゆ、ダサい」なる空気を感じていた。
みんなBETTY'S BLUEのショップバックのことあんなに大事にしてたじゃん、急に「子どもっぽい」って何、どうしたの、そんな感じ。
なお、先ほど調べていたらBETTY'S BLUEは事実上なくなっていたので、一つも持っていなかったにも関わらず動揺している。
私は特別好きだった訳でもないので、「みんなあんなに好きだったのにな〜」くらいに思っていたが、
「あゆのCDが売れなくて返品されたけど、返品だと売り上げが減るから、avexは売れ残りを四国の山奥に埋めてるらしい」という噂を聞いた時は「あゆ、大丈夫かな…」と真面目に心配した。真面目な馬鹿だ。

そして、「今、あゆが好き」と公言する高校生は、私の周りには1人しかいなかった。
高校のクラスメイトだったあの子は、クラスの何人かで行ったカラオケで「あゆの新曲」を歌ってくれた。
当時藤くんに倒錯していた私は「あゆの新曲なのに1回も聴いたことないぞ…」というのに結構驚きつつ、「この子は本当にあゆが好きなんだなあ」と思った。
カラオケでは中島美嘉倖田來未が歌われていた流れで入れられたあゆ、「M」でも「boys & girls」でもなくその時の新曲(タイトルは忘れた)、「これは、あゆのこういう気持ちが歌われてるんだよ」と解説してもらったことを覚えている。
私とあゆの、一番個人的な思い出だ。

それらの思い出や体験を踏まえ、私と同年代である大森さんが「あゆが好きだった」ではなく「あゆが好き」と言ったとき、私は驚くと同時に「この人は本当にあゆが好きなんだなあ」と思った。

あとは、その頃聴いていた「魔法が使えないなら死にたい」とあゆのイメージが結びつかなくてびっくりした。
最近はカラオケであゆのライブ映像が流れるものを入れ、「あゆちょうすげえ」という気持ちを新たにしているので、そんなにびっくりしていない。

あゆはカリスマ。
あゆは詩人。
あゆはファッションリーダー。
(これは歌番組か何かで流行ったあゆの紹介だが、
「あゆはカリスマ」が「ゆずのオールナイトニッポンスーパー」でネタにされていたことを覚えている人はなんらかの手段で私とハイタッチしてほしい)
背負わせているものがいささか多すぎやしないか。でも、その通りなんだろうな。

私が思春期にあゆを聴かなかったのは、あゆを知る権利がなかったからだ。
あゆは、スクールカーストの高い女の子の持ち物で、例えばBETTY'S BLUEのショップバックを体操服入れにしてもいいのはあの子達だけだったのと同じように、あゆを好きでもいいのはあの子達だった。
「あいつ3軍なのにBETTY'S BLUEの袋持ってんのウケる」って陰口を言われる世界の話。
家でこっそり聴いていた子はいたのかも知れないが、少なくとも私は「あゆは私の持ち物ではない」と思っていた。
スクールカーストが歪なのか、私の認知が歪んでいるのか、おそらくその両方だろう。

そんな私のようにならないで、今中学生とか高校生の子が大森さんを好きだと言っていてくれたらいいなと思うし、大森さんのことだからあんまり心配していない。