白昼夢、或いは全部勘違い

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コンテンツの消費

愛人形と偶像崇拝、消費されないものはなにか

オリエント工業40周年記念展「今と昔の愛人形」を観に行った。
オリエント工業40周年記念展「今と昔の愛人形」 | Schedule - スケジュール | アツコバルー ATSUKOBAROUH arts drinks talk

ラブドールの思い出と、感想、あと考えたことをつづる。

平々凡々な女子大生だった私が「オリエント工業」の存在を知ったのは、平々凡々に映画「空気人形」だ。
『空気人形』予告編 - YouTube
初めて映画館に一人で観に行った映画。
同じ監督の「ワンダフルライフ」がね、日本の映画でいっとう好きでね。

映画が公開された頃、それまであまり明け透けな性の話をすることもなかった同じゼミの女の子数人と、研究室でオリエント工業のカスタムオーダーのサイトを見た思い出がある。
ラブドールってなに?」「ダッチワイフだよ」「なにそれ?」という会話をした覚えもある。
面倒なので説明はしなかった。
私は一体どこで「ダッチワイフ」という単語を覚えたのだろうか。
多分「ROCK20代 勝手にしゃべれ場⁉︎」だと思う。
ともかくみんな口々に「すんごい美人だね」「可愛い」と言っていた。

長野まゆみを読み耽っていた私にとって「人形」といえば三日月少年や球体関節人形だったが、ラブドールたちの儚い表情を美しいと思った。
こんなに美しくお金がかかり手間もかかるドールを所有することは、単なる性の欲求を超えたものがあるのではなかろうか、と想像した。

ちょうどその頃、一般教養の講義で偶像崇拝のことを学んでいた。
専門でもなく半年の講義で学んだうろ覚えの話だが、ものすごくざっくりいうと西洋と東洋、人形をただの物として捉えるか、無機物を超えたなにかとして捉えるか、というのが主な議題だった。
よく覚えているのは、西洋のどこぞの国で買っという「街中にあるたまたま顔に見えるもの」の写真集を見せてもらったことだ。
コンセント、上から見た消火栓、壁のシミ、たまたま人の顔に見えてしまう何かを、「なんとなく不気味」と思うか「顔に似てて面白いけど、それだけ」と思うか。
偶像はあくまでただの外っ側で本質を持たないものと捉えるか、形を与えられた以上はなんらかの意味を持つのか。
それらを踏まえて、このラブドールたちにはきっと「機能」以外の「役割」があるのかもしれないな、と想像した。
私はその役割をぬいぐるみに託しているが、話し相手になってくれるのかな、とか。
壁と話すよりは話しやすい。


さて、オリエント工業展。
「人造乙女美術館」などは知りつつも機会がなく、今回初めてドール達と対面することができた。

ほぼ撮影可能であったが写真を撮らなかったので友人の撮ったものを転載する。許して。

美しい。
顔の絵付けの工程も展示されていたが、まさに「メイク」という感じであった。
やはりノーズシャドウは重要である。
足の裏や膝の裏の血管がとても綺麗で驚いた。
こんなに綺麗な血管を持つ生身の人間は、それこそ透き通るような白い肌と恐ろしく華奢な肢体を持つ女の子だけだろうと思うと、何もかも得難い美しさだった。

一番印象に残った展示物。

アダルトグッズラブドール

まず先に、アダルトグッズそれ自体には、残念ながらいい印象を持たなかった。
バナナを模したケースのものを見て、何が悲しくてバナナを体内に入れなければならないのか、ギャグじゃん、と思った。
(バナナを体内に入れたい癖の方がこれを読んでいたら申し訳ない)
(余談だが私はバナナが全く食べれない。)
一番びっくりしたのは、ふくらはぎに巻きつけられた、先端に洗濯バサミのようなものがついたチェーン鈴が付いていたことだ。
シャンシャン鳴りますやん。
まあでも、鈴の音は景気がいい。

どれもこれも色と形はポップでキャッチー、見た目が重視されているのだろう。
展示物なので当たり前といえば当たり前なのかもしれないが、会場内に所狭しと並べられたドール達は美しく、尚且つ実用品であるのに対して、馬鹿馬鹿しい外見のグッズがアンバランスに思えた。
これらが実用的なのかどうか見た目からは計りかねるが、少なくともバナナは嫌だなぁと思った。

その次に、「ドールとアダルトグッズ」という組み合わせについて考えた。
写真右の赤い筒、漫画「アラサーちゃん」によるとこれをインテリアとして部屋に飾る男性がいるらしいが本当なのだろうか。
こちらも実物を初めて見たが、確かにお洒落だった。
これにアダルトグッズが挿入してあったらどう思うだろうか。
想像してみた。
それとこれとで簡潔する世界がそこにあるのかもしれないが、一体何が伝えたいのかは今ひとつわからない。

では、ラブドールアダルトグッズの組み合わせはどうか。
ドール自体を道具にカテゴライズしたとして、そのドールをさらに道具であるグッズの使用者とすること、
それは「相手にグッズを使用したい」「グッズを使用している相手が見たい」という主体的な欲求を満たすものなのか、
それとも「ドールのためにグッズを用意した」という献身的な態度なのか、
ともかく、あの赤い筒とグッズの組み合わせにはない目的があるように思われた。
単なる展示でありドールの所有者はそんなことしないよ、という話になるのかもしれないが、とにかくあの展示が一番印象的だった。


ところで私はよく「それを売りにしていない相手を性的に消費すること」に対して怒っている。
ギャラリーストーカーとかね。

しかし今回の展示は、「綺麗なもの」を見たくて足を運んだ。
ドールたちは生み出された意図が純然たる性的なものであり、それをその消費者たり得ない私は覗き見しているようなもので、
「売りにしていない」ものを消費しにいったのは私の方だった。
ややもすれば消費に対してヒステリックになりがちな私が、ドールに惹かれる理由はなんだろうかと考えたが、
ドールは大切にされているからかな、と思う。
「生きている女より余程手がかかる」と聞いたことがある。

初めてドールに触ることもできた。
ドールに挨拶し、握手し、「失礼します」と述べて太ももを触り、腕を触り、耳たぶを触り、握手し、挨拶して帰った。
腕には、何かで聞いた通りベビーパウダーがはたいてあった。
私の全身にベビーパウダーを毎日くまなく丁寧にはたいてくれる人はいるだろうか?
多分、いないだろう。

陳腐な言葉になるが、ドールの歴史や展示、作成過程にも、ドールへの愛情が感じられた。
一方的な消費ではない、献身があるように思った。
なにより、ドールはどれも美しかった。

ショールームにずけずけと足を踏み込むような無粋な真似はできないので、今回、間近でドールを見て触る機会があり、とても嬉しく思った。