コンテンツの消費

白昼夢、或いは全部勘違い

コンテンツの消費

「わたし」を構築する「わたしみ」、「わたし」が構築した「わたしみ」

大森靖子「わたしみ」Music Video - YouTube

大森靖子ちゃんの新曲「わたしみ」が公開されたので、
「わたしみ」という言葉と、「わたしみ」の歌詞について思ったことを。

「●●み」という表現
私が初めてこの表現を見たのは「バブみを感じてオギャる」という構文だ。
詳しいことは正直わからないのだが、二次元のキャラクターの母性ある様に対して「バブみ」=「赤ん坊のような気持ち」を覚え、「オギャる」=「赤ん坊のような行動をとる」ということだと理解している。
(これを目にしたのは女性のキャラクターに対する男性の発言だったと記憶しているが、
その後男性キャラクターの幼い様が「バブみある」と評されていたときは、
「まるで赤ん坊のようだ」と、赤ん坊である側が入れ替わっていたこともあった。)

この「バブみ」が示すのは、単に「お母さんみたい」「母性を感じる」という、実母の顔が思い出されるようなたまひよ的価値観ではなく、
特定のコンテンツを好む集団、所謂「界隈」では共有される心情であり、
それを端的に表した新しい表現だな、と目を見張ったのを覚えている。
(なおただの好みと美学の問題だが、「界隈」という表現は余り好きではない。)

ここから、「●●み」という表現は、
「特定の集団が共有する狭義」と解釈している。
同じ言葉であっても集団や時事によって変動する。割りかしハイコンテクスト。

「死にたい」と「死にたみ」
では、大森さんの遣う「●●み」について考えてみる。

大森靖子「ピンクメトセラ」MusicClip (short ver.) - YouTube

感染ルートは僕の下書き保存
ナチュラルな死にたみを吸い込んだリンゴさ

「ピンクメトセラ」の歌詞には、往年の「ポケベルが鳴らなくて」に代表されるような時代を切り取った言葉が投げ込まれている。
クラウド化」「拡散希望」、携帯メールアドレスを変更した時の「一斉送信」がピンとこないであろう世代に思いをはせる。
「下書き保存」で思い浮かぶのはtwitterの下書きだ。
twitterで面白いのは人のファボ欄と下書きだと思っているし、
私の下書きだってtwitterに投稿したものや1分以内にツイ消ししたのに誰かにスクショされたであろうあれやこれよりもよっぽど面白いものが詰まっている。
ここで下書き保存される「死にたみ」は「死にたい」でも「死にたさ」でもなく「死にたみ」なのだ。
ナチュラルな死にたみ」、考えを捏ねくりまわすことなく、ごく当たり前に感じられる「ああ、死にたいなあ、多分別に死なないけど、」という気持ち、私の場合は。
心当たりのない人には全くないだろうし、
「あの時の気持ちって、死にたいでも消えたいでもなくて、『死にたみある』だな」と思う人もいるだろう。
twitterの仕様は確認していないが、下書きはクライアントアプリ毎に違うものがあるので、
きっとクラウド化されることなくローカルなアプリのデータとしてリンゴマークのついたiPhoneに保存されているのだろう。知らんけど。

「お前に何がわかる」を軽減する「わかりみ」
バブみ」や「死にたみ」は特定の集団で共有可能な狭義を持つとして、
「わかる」と「わかりみある」は何が違うのだろう。

「とか」「的な」を筆頭とした、断定を避ける表現が若者の間で増えています、と言われたのは今から15年ほど前の中学生の時だった。
「わかりみある」から私が感じるものは、
「すっかり全部共感できているかといわれると断言できないが、同じ考えの部分もある」や、
「完璧とは限らないが、自分としては理解できているつもりだ」という、
「わかる」から一歩引いた状態だ。
私は面倒臭い人間なので、相槌としての「わかる〜」が大嫌いだが(わかってたまるか、といつも思っている)、
「わかりみある」と言われたら「ちゃんと日本語喋れよ」と思うものの「お前に何がわかる」とは思わない、ような気がする。
思うかもしれんけど。

なので、この「わかりみ」から、「●●み」には「(○○もあるし●●もある上での)●●」という、
他にも可能性があることを含んだ、曖昧な余地を残した表現では、とも思っている。

好意が先か属性が先か
「○○属性」の話。
コンテンツの消費者として「○○属性がある」というときには、
「○○という類のコンテンツを好んでいる/享受することができる」を示すことがある。
反対に、消費の対象に付く「○○属性」は、「よく好まれる特徴の一つである○○を備えている」ことを示す。
ツンデレ属性、ドジっ子属性などだろうか。
私には「幸薄属性」と「不憫萌え」が備わっている。

なぜ突然、属性の話を始めたのか。
最近、中学生のころ好きだった漫画が相次いでリメイクされることになり、各作品の中で一番好きだったキャラクターを並べ立ててみたところ、
ファンダジーでも現代ものでも時代ものでも変わることなく、全員に共通する「属性」があったからだ。
そこから、私は、一人一人が好きなのではなく、自分が元々好ましいと思っている特徴(イコール属性)に最も当てはまる人を探していただけなのではないか、と思った。

これはあくまで私の話なので、そうでない人も勿論いると思うが、
複数人からなるグループのうち「推しメン」を見出すのもそれと似ていて、
自分の属性に最も一致するのはどのメンバーなのか?と詮索しているだけなのかもしれない。

これは「1グループにつき推し1人」「1作品につき嫁1人」で、
推しを決める瞬発力の高い自分にとっての話なので、必ずしもそうでない場合があることは想像している。

2秒で伝える「属性」
特定のグループを応援しているわけでもないが、
アイドルのライブを何度か見たことがある。
その中で自己紹介が「はーい!」や「はいっ」や「はい…」から始まるのをよく見かける。
大森靖子ちゃんの「IDOL SONG」でも、個性豊かな「はい」を聴くことができる。
(個性豊かといっても、全部、大森さんなんだけど)

グループの、各メンバーの「個」が最も現れるのがこの自己紹介および「はい」であり、
私はこの「はい」を「属性の提示」だと思っている。
「私はこのようなアイドルなので、それを好ましいと思ったら好きになってください」と2秒でプレゼンされているような気分だ。
2秒で個を伝えるアイドルと、2秒で好きかを判断する消費者、
消費者の中にある「属性」との一致、もしくは消費者に新しい「属性」を追加できるか、
それにより、誰かを好きになっているのかもしれない、と思った。
(好きになるところはたった2秒の「はい」だけではなくて、
ステージやSNSやメディアや対応など色々あるのは知ってはいるが、
その個性の象徴で最も濃縮されたものが「はい」なのかな、と思っている)

好意が先か、属性が先か。
私は私のことをいつも疑っているので、「私は本当にこのコンテンツが好きなのか?たまたま条件に一番当てはまる人を仕方なしに選んだのではないか?」と思う時がある。
「好みの作品」があるのは喜ばしいことたと思うが、「これはこういう属性だから私はこれが好きに違いない」という自己暗示にかかってはいないだろうか、と不安になることが、たまにある。

「わたし」と「わたしみ」
ようやく「わたしみ」の話をする。

「わたしみ」とは一体なにか。

まず、「わたし」を、この歌を歌っている大森さんだと仮定する。

先立って捏ねくり回した理屈に則ると、
「わたしみ」は狭義の「わたし」であり、
「わたし」の中の全てではないが一部分、といえる。
つまり、「わたしみ」とは「わたし」を修飾する様々な要素や属性ではないか、と考える。

私の知っている大森さんは、歌が上手くて、理屈が通っていて、人と一対一で向き合う、あげだすとキリがないが、まあ、たくさんある。
そして、私の知っている大森さんは、あくまで「超歌手 大森靖子」として大森さんが提示したものであり、それは決して「大森靖子さん」というどこかで生きる個人ではない。
そもそも、今の戸籍の名前とも違うらしいし。
「超歌手 大森靖子」と「大森靖子さん」は集合の図のように重なり合うとして。
その集合の図の○の中に小さい○を書いたもの、それが「わたしみ」のイメージだ。

誰も知らないわたしみ 誰にもあげないわたしみ

私の知っている「超歌手 大森靖子」の外にあって「大森靖子さん」の内にある「わたしみ」は、当たり前に存在する。
「超歌手 大森靖子」が「わたしみ」として世間に提示するもの、しないもの、
(それは「はいっ」に込められるものだ)
大森靖子さん」が「わたしみ」として周囲の人に提示するもの、しないもの。

歌を聴いて、メディアで語られるものを見聞きして、SNSや握手の際に話して、
私にとっては提示される大森さんが全てだが、沢山の「わたしみ」を享受しているうちに、
「誰も知らない」「誰にもあげない」ものがあることを、うっかり見失いそうになる。
当然ながら存在するそれらのことを、「わたし」ではなく「わたしみ」という表現が示唆してくれているように思った。
「●●み」がもつ、他の可能性を示唆する特性によるものだ。

パブリックイメージとしての「わたしみ」

消したい過去がわたしみ 強くなりすぎたわたしみを
わたしがしあわせにする

先日大森さんがラジオで「今の私は今までの私を含んでいる」という趣旨のことを述べていた。
それはつまり「消したい過去」であっても、「わたし」を構成してきた部分である、ということだろうか。

「●●み」は、「特定の集団が共有する狭義」と解釈したが、「わたしみ」にその解釈を当てはめると、
「特定の集団がもつ大森さんの特定の要素、イメージ」ではないかと考える。
悪意のある他者からの「サブカル」「メンヘラ」、好意的な文脈で用いられる「病み」、
私の知っている大森さんは超歌手でエネルギーなので病んでないけど、まあ、そういうやつとか。

この「強くなりすぎた」から2つのイメージをもった。
ひとつは、「強い大森靖子」。
私としては好意的に大森さんのことを「強い」と思うことは多い。
例えば、悪意を絶対にスルーしない優しい力、「つよいなあ、」と感嘆する。
けれど、私が想定する「超歌手 大森靖子」の強さは、果たして大森さんが提示したい強さと見合っているのか、
そしてそれは「大森靖子さん」に見合っているのか。
そんなこと私には知る由もないが、私は勝手に大森さんを強くしすぎたことはないだろうか、と、この歌を聴いた時に思った。
もうひとつ、「大森靖子さん」を凌駕する「超歌手 大森靖子」。
「わたしみ」が、コンテンツとして提示される属性だとして、
コンテンツである「超歌手 大森靖子」の属性が、元々は主体であったはずの「大森靖子さん」に食い込むことはあるのだろうか。
私は消費者なので「超歌手 大森靖子」を求めているが、それは果たしてその範囲に収まっているだろうか。
「超歌手 大森靖子」に「大森靖子さん」を求めたり、越権して「大森靖子さん」を求めたりはしていないだろうか。
大森さんがその2つをどの程度分けているのかは知らないが、私はそれらをいつだって線引きしたいと思っている。
それができているのかは、わからない。
「超歌手 大森靖子」が「大森靖子さん」に食い込むとき、それは「わたしみ」が強くなりすぎたときではないだろうか、と振り返り、
せめて私はそれに加担しないように、と思った。

「わたしみ」はパブリックイメージとしての自分や、その要素ではないかと思う。
それは、提供する側が「こういう『わたしみ』を届ける」と規定したものであると同時に、
「わたし」自身にも大なり小なり影響するものだと解釈した。
そしてそのたくさんの「わたしみ」を抱えた「わたし」の全てを知る人は自分自身になく、
故に「わたし」をしあわせにするのは「わたし」なのだなと思う。

多面体「わたし」

薬指の心を 運命とかにあげても
わたし 残り9人も わたしをぶらさげている

左手の薬指といえば結婚指輪だ。
結婚が運命だとして、それを左手の薬指に象徴したとして、
手の指はまだ9本残っている。
「結婚して、しあわせになって、表現が丸くなった」という批評はクソだと思っているが、
それに対するアンサーとしてこの歌詞をくれたのだと思った。
結婚した、運命だったとしても、
「わたし」はそれが全てになるのではなく
他のわたしをぶらさげることが出来るのだと、鼓舞される気持ち。
例えば母になったからといってロックを諦めなくてもいいような、
大森さんが実践してくれたことを想起するこのフレーズが、私はとても好きだ。

私の「わたしみ」
ここまで「わたし」を大森さんとして考えてきたが、
今までの理屈は抽象化して私自身に当てはめることもできるだろう。

自己開示が下手だし全部を知らせることは怖い。
ならば私が「わたし」をしあわせにしてあげたらよいのでは、
私が「わたし」をわかってあげればよいのでは、
今はそんな気持ちだ。

理解を諦めない

高いアイスが好きで 誤解されやすくて
バカなやつの理解を すこし諦めている

ハーゲンダッツは大好きだし、
ゴディバデカダンスも大好きだし、
そしてパルムは美味いよね。

世の中全てと解釈違いを起こしているので、誰が大森さんについて語っているものをみても
「そんなことねーよ」と思っているし、
私が散々こねくり回したこの文章だって全部誤解かもしれない。

大森さんが「すこし諦めている」というのなら、
私は諦めないで大森さんのことを想っていきたい、
と思い、これを書いた。

大森靖子「わたしみ」Music Video - YouTube