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大森靖子「流星ヘブン」によせて(一瞬でもいいから追いつくために)

大森靖子「流星ヘブン[零]」Music Video - YouTube

大森靖子、ほぼ弾き語り的なほぼベスト的なアルバム『MUTEKI』(2017年9月27日発売)。
本作に収録されている、弾き語りでもなく再録でもない新曲、「流星ヘブン」について。
「大森さんがavexから出した曲の中で一番好き!」とリリースイベントで大森さんに伝えたが何がどう好きかは伝えきれなかったので、なぜそんなに「流星ヘブン」が好きなのかをここに書く。

私はこの曲を「超歌手 大森靖子が、リスナーに伝えたいこと」だと思った。
「リスナーに伝えたいことを歌にするって、そんなの当たり前じゃん」ということではない。
私はこの曲から「大森さんが『大森靖子』であるとはどういうことか」「『音楽を届ける』とはなにか」を勝手に汲み取っている。
大森さんが本当は何を考えているかは勿論知らないし、歌詞の真意を尋ねるのは野暮だ。
そして常々「歌詞がそのまま本人の体験や主義主張とは限らない」と思っているが、私はこの曲を大森さんから私(や他の誰か、知らんけどあなたとか)への手紙というか、大森さんが私(とか君とかあの人とか)を思って書いたブログか何かを盗み見ているように思った。なので、歌詞をどう解釈したかとそれでなにを思ったかに重点をおいて書き留める。

a.命の使い方 この世界に愛されたい

「命の使い方」で思い出すのは「IDOL SONG」(『kitixxxgaia』収録)だ。

ねえアイドルになりたい
すっごい愛をあげたい
このいのちの使い方を 君に愛されたい

着目すべきは「愛されたい」ものが「いのち」ではなく「いのちの使い方」である点。
まず、アイドルであるということ、アイドルとしてファンに「すっごい愛をあげる」ことを、自己表現や芸能活動や仕事などを超越した「いのちの使い方」として表している点にアイドルという存在について大森さんが考えるものの重さを感じる。
例えば私はごく普通の会社員だが、働くことを「いのちの使い方」だと思ったことは一度もない。
「いのちを使う」、言うならば「命がけ」で果たされること、私が想起するのは狂気に飲まれた哲学者や、結果以外の一切を失った研究者であり、大森さんにとってアイドルとはそれと同等の存在なのかと想像し、それだけ過酷でありながらその側面を見せない存在にゾッとする。
また、「いのちの使い方」という表現からは、「愛してもいいのはアイドルとしての自分だけだ」と暗示されているように思う。
「愛されたい」と願う対象は、「愛してもいい」対象と言えるだろう。そしてここではは「いのち」ではなく「いのちの使い方」なのだ。
つまり、アイドルである前に1人の生き物あるそのの存在そのものではなく、「アイドルであること」が愛することを許可された範囲だと私は受け取った。
(これは、私が常日頃『提示されていない消費の仕方をする』行為について怒りを持っていることに大きく起因する。例えば『シンガーソングライター』を『女の子』として消費するなよ、とか、そういうこと。)

話を戻す。
大森靖子」もまた、命を使って「超歌手」として活動している。
それを、「この世界に愛されたい」と歌っているのだ。
私は大森さんの音楽が好きだ。私と大森さんの間に先立つものはいつだって音楽でしかないと常に思っている。
そして、大森さんが音楽を届けるために行う、ありとあらゆる行為もまた私の好きを加速させる。
例えば、ファンと向き合う姿勢、ある時は、困難と向き合う姿勢。
先日惜しくも終了した東海ラジオの番組(通称 せいこりん)の最終回で募集されたテーマ「せいこりんの好きなところ」に私は以下のメールを投稿した。

1つ目は、音楽です。
大森さんと私の間に先立つものは、音楽でしかないです。
2つ目は、音楽を届けたり守ったりする姿勢が誇り高いところです。
たまに泥試合になって勝手に心配になるときもありますが、それも全部、大森さんが作った音楽や、それに携わった人、大森さんの音楽を好きな人、そのひとつひとつを大切にするためのことなのかなと。
大森さんが誰かと殴り合っているときほど、何かを守っているように思います。
3つ目は、「みんな」という匿名の塊でなく、ひとりひとりをひとりひとりとして扱ってくれるところです。

この2つ目に対して大森さんは、いつもより少し低い声で溜息のように「ありがとー」とコメントを添えてくれた。
私は、なんだか自分の「好き」が報われたような気持ちになってしまった。
「命の使い方」という歌詞から、私が失礼ながら「泥試合」と述べたようなあらゆる活動をひっくるめて「この世界に愛されたい」と歌っているように聞こえた。
それは切実な叫びであるとともに、「愛される」ことを覚悟している姿勢だとも思う。
愛されることは、私には怖い。
人に好かれるのは得意ではない。ましてや、自分のやることなすことを愛してくれと望むということは、その愛を受け止める覚悟の上なのではと思う。

愛する主体の違いにも着目したい。
「IDOL SONG」では「君」であるのに対して、「流星ヘブン」では「この世界」が「愛されたい」と願う対象だ。
アイドルの場合はファンである「君」から愛されるのだとして、「この世界に」愛されるとはどういうことだろうか。
私は、「マジックミラー」「『TOKYO BLACK HOLE 』収録)で歌われる"どうして女の子がロックをしてはいけないの?"といった世間が向ける眼差しによる不自由さに対して、愛されるために不自由を産む価値観そのものを変えることではないかと思った。
「命の使い方」は、大森靖子の命がけのあらゆる活動であり、大森靖子が変わるのではなく「この世界」を変えた上で「愛されたい」のではないだろうか。
(この「大森靖子が変わる」は後述する「小さな自殺」のことである。)

「命の使い方 この世界に愛されたい」
ただこの1行から私が汲み取ったものは、
重たくどろりとした覚悟だ。

a.命が消えるとき あの星は流れて光る

大森靖子の活動が命を使ったものだとしたら、使ったものは当然すり減る。
アクションゲームのライフよろしく消えて消えてゲームオーバーなんてことも、もしかしたらあるのかもしれない。
大森靖子が命をすり減らして、ライフを削って作り出した音楽が流れて光っている様を、私は想像した。
「流星」は命をすり減らして産み出された芸術で、それが流れて光る様を私は眺めている。遠い宇宙に死んだ星があり、地上にいる私はそれを「きれいだね」と言う。
超新星爆発の光が地球に届く頃、その星はとっくに消滅していると言う話を私は多感な高校生時代に教祖様(藤くん)から(ラジオで)聞いた。コズミックな感傷に浸ってしまいそうになるが、死ぬことについてもうひとつ。

「流星ヘブン」では生死に関する言葉が多く使われている。直接的な意味での生死も含んでいるとは思うが、ここでは「心を殺す」意味での生死に焦点を当てる。
かつて、外部の圧力によって(恐らく、特に信念や信条に関する)何かをなかったことにする、心を殺すことを「心の中の小さな自殺」と述べていたMCがあった。
が、どこの公式ライブレポートにも載っていないので私の妄想かもしれないし、本当だったとしても「都合よく好きな一瞬を永遠に」している行為に過ぎないだろう。まあ、あったんだよ、私の中では。

大森さんは、誰も気に留めないしもしかしたら本人も気づかない他人や自分の自殺に目を向けている人だと私は思っている。
気づかないもの、見過ごすもの、見て見ぬ振りをするもの、あって当たり前だと思われているもの、そのひとつひとつを防ごうと争ったり弔ったり、ゆりかごから墓場まで戦っている。
星が流れて光るとき、芸術が生まれるとき、私の大好きな大森さんの心の中で、小さな自殺が起こっていやしないだろうか。私はそれを見過ごしていやしないだろうか。
そんなことを思った。

ラブソングが幸せを願う "あなた"以外を救うため
私が君に会いに来た 君も私に会いに来た

テレビで流れる「ラブソング」に救われる人はたくさんいると言うのに、自分のことを歌っている歌はどこにもないような気がしたことはあるだろうか。
大森さんは「マジックミラー」(『TOKYO BLACK HOLE』収録)で「この歌私のこと歌っている」と歌っていた。これは、大森さんを聞いている私やあなたのことを代弁しているのだろう。
それなりに音楽を聴いて来たつもりだったし、好きなものもたくさんある。けれど、私がボロボロになっても手放すことのできなかった記憶を重ねることができたのは、大森さんの音楽だけだった。
「"私"以外」の人は音楽に救われているように感じる私のところに会いに来てくれたのが大森さんだった。私は大森さんを必要としていたし、大森さんは私のところに届いたのだ。

MUTEKI』の店着日、大森さんは以下のツイートをしていた。

必要としてる人に 必要な曲が届きますように

私が今大森さんの音楽を聴いていることは、「私が君に会いに来た」即ち「大森さんが、大森さんの音楽が必要な人目掛けて届けてくれた」からなのだろう。
それと同時に「君も私に会いに来た」と大森さんは歌う。私も大森さんに会いに行ったのだと教えてもらうことで、私が大森さんにたどり着いたことを頭を撫でて褒めてもらったような気持ちになった。

"ヘブン"

「流星」が命をすり減らして産み出された楽曲たちだとしたら、天国はその楽曲が行き着くところだ。
すなわち音源作品達、特にこの過去の楽曲がベスト的に収録された『MUTEKI』というアルバムが楽曲たちの天国、つまり「流星ヘブン」なのかもしれない。

a.アカウントを消して 仮想的に自殺する
自撮りは私の遺影 2ギガのムービーは走馬灯

「インターネット上で仮想自殺を繰り返す人」の話を読んだことがある。ネットだけの付き合いがある人に「あの子の家族です。あの子は自殺しました。今までありがとうございます。」とメールを送り、関係を終わらせていたという。
私は先日、長らく使っていたtwitterアカウントを削除した。インターネット上でしか私を知らない人からしたら死んだも同然であろう。生きてるけど。
自撮りと実物が別人のようであることは珍しく無くなったが、インターネット上で死んだあの子の遺影が自撮りだとすれば、死んだのは誰なのだろうか。思い出すのは、アオイロインターネットヒミツガールのことだ。
SNSは仮想の別世界の様相を濃くし、現実の私と仮想の私はもうとっくに別人なのかしらんと古いSFのようなことを思う。

数日間だが、大森さんがtwitterのアカウント削除したことがあった。その間「靖子ちゃんが今何をしているのかわからなくて寂しい」というツイートが溢れかえり、私は少し驚いてしまった。
私が寂しくなかったからではなく、私にとっては友達でもないミュージシャンがまさに今何をしているのかを知ることが出来る状況が特別であり、知らないことは平常運転だと思っていたからだ。プラットホームによってパラダイムシフトが起こるということ、知ってはいたつもりだがまざまざと見せつけられた。twitterを主としてSNSが変えたもの、大森さんがtwitterというメディアをどのように使っていたのか、そんなことを考えた。

走馬灯という脳の誤動作ともスピリチュアルな体験とも言える事柄が、「2ギガのムービー」と結ばれる言葉選びが私はとても好きだ。
大森さんは度々歌詞の中に「その時代を切り取る言葉」を混ぜる。ほんの少し前まで2ギガは途方も無い量だったはずなのに、「ムービー」という記録方法すらすぐ古いものになるのかもしれない。白黒写真がカラーになった時代を私は知らないが、ムービーがこんなに簡単に誰にでも撮れるようになるとは想像もしていなかった。
すなわち「2ギガのムービー」を「走馬灯」とできる時代は思うよりずっと短く、それだけ大森さんの言葉選びが鋭いものなのだろうと思う。
初めて買ったiPodは4GBで、「容量がヤバい!これだけあればなんでも持ち歩けるじゃん!MD何枚も持ち歩かなくていいじゃん!」と思ったのはつい10年前の話だ。
私はこういう事柄から大森さんと同年代であることを勝手に実感している。

一秒毎に私は死んで生まれ変わるから
一つ一つの死骸を拾って 愛して

最近、目に止まったツイートを引用する。

インターネットの普及がもたらした最大の害悪の1つは、「論破」したければ相手が一貫性を欠いているところを攻撃すればいい、という戦術を普及させてしまったことかなと思ってます。結果、自己の一貫性に病的なまでに執着する人の数を急激に増やしたな、と。

Twitter

大森さんに限った話ではないが、炎上騒ぎが起きると過去のインターネット上の発言を取り上げて「言ってることが違う」と責め立てる人を見かける。
私には「じゃあ貴方は死ぬまでバッドボーイの服だけ着ててね」程度の悪口しか思い浮かばないが、「一秒毎に私は死んで生まれ変わる」は、その風潮に対する一つの答えとして機能する。
「わたしみ」では、「9人も私をぶらさげている」と、同時に存在する自己の多面性を歌っていたが、ここでは時間によって変化することを宣言した上で、「愛して」と望む。

流星たる楽曲たちが命を消して、つまり死によってもたらされたものだとしたら、楽曲たちは大森さんから切り離された死骸だということなのだろうか。
(過去の曲は死体のようなものとテレビで言っていたような気がする。これを書くにあたって曲以外のインプットをしたくなかったので後で確認する。)
ライブで聴く曲が昔から歌われているものでも「死骸」と思ったことはないが、目の前で生きている大森さんから発されるのだから当然であろう。
けれど、私が持っているCDにも、もうこの世にいない人が作ったもの歌ったものがいくらでもある。それは作った人が生きていようが死んでいようが変化しない。
音楽はCDに閉じ込められた時点で、冷凍された死体としてパッケージされているのかなと、「死骸」という言葉を聴いて思った。

「死骸を拾う」と言われてお骨をお箸で拾った数少ない経験を思い出した。よっぽどの縁がある人だけだ。
私にとって「死骸を拾う」とは丁寧で思い入れの強い行為なので、大森さんから「死骸を拾って 愛して」と望まれているなら、私は嬉しく思ってしまうし、心して拾い愛したいと思う。
きっとこの文章も、拾って愛すことの一つだ。

余談だが、大森さんの発言に一貫性がないと感じたことは、あまりない。
一部分だけを悪意を持って意図的に切り取って付き合わせれば矛盾するものは勿論あるだろうが、抽象度を上げて考えれば根幹にある信念は揺らいでいないように私には見える。


流星"ヘブン"

素人の言葉遊びとして軽く捉えて欲しいが、この歌詞を「私」「流星」「ヘブン」の3つに分け、順に抽象度が上がるものと捉える。
抽象度を上げる、を「『大森さん』と『大森靖子という概念』」と言い換えてもいい。
「大森さん」は、例えば私がリリースイベントで一緒に写メを撮ってもらった白くて柔らかそうでニコニコ笑う可愛い私だけの存在だ。
その大森さんが紡ぐ「流星」たる曲たちは、歌っているのは大森さん1人でありながら、リリースイベントに集まった驚くほどの数の人、その一人一人に向き合うものとして届く。
同じ空間にいるとはいえ、私が面と向かって話した「大森さん」よりは具体性がなくなり、代わりにより多くの人に同時に刺さる「大森靖子」となり得る。
そしてその流星たちが行き着いた「ヘブン」である『MUTEKI』は、プレスされ流通に乗り私の家やあなたの家に届きそこにそれぞれの「大森靖子」が存在する。
この「大森靖子」は、私にとって一番抽象度の高い「大森靖子の概念」だ。
弾き語りを再録したことについて、今までの音源作成の経験を経て弾き語りを弾き語りの良さをもって音源化出来るようになったと思ったからといったことをラジオで聞いた。
それは「大森靖子の概念化」を高い抽象度で実現できるようになったということではないかと私は思う。
MUTEKI』に収録されている弾き語りの曲を聴いていると、大森さんが私の部屋で歌ってくれているかのように感じる。ツイキャスだって弾き語りのライブ録音だって聴いたことあるのに、初めての感覚だった。
CDがあればそこは「流星ヘブン」、あなたがいればここは東京。

私で魂ヌいてください

片仮名であることから、この「ヌく」が示しているのはオナニーのことだろう。
つまり「私をオカズとして、自分1人で魂を気持ちよくしてください」ということだ。
(私はいったい何を大真面目に書いているんだ。)
「魂をヌく」という行為が何を指すのか、まだ想像がついていない。
2017年6月23日に行われたツアー福岡公演で、私は過呼吸になるほど泣いた。酷く汚い顔だったのだろう、友達は苦笑し、大森さんはステージから指をさして笑っていた。そういう時に愛を与えられた気になってしまう。
大森さんのライブだからって毎度毎度泣くほど涙もろくはないけれど、あの時私は思いつめていたし、泣くことで晴れやかな気持ちになった。
大森さんは大森さんのままで歌を歌い、それを観た私が自分の都合のままに泣くこと、後付けだが、あの行為に名前をつけるなら「魂をヌく」がぴったりかもしれない。

消えてしまう前の私に 一瞬でもいい 追いついて

音楽は瞬間芸術であることを思い出す。
瞬きだって惜しい気持ちで歌っている大森さんを見つめている。
耳に届いた端から消えていく音をつかみ損ねることのないよう、心してライブを観たいといつも思っている。
そして、大森さんの活動のスピード感が好きだ。前日に報道されたニュースを元に弾き語りで即日披露された「春の公園」、の数日後に追いついてくるバンドサウンドは2015年のツアーでの出来事であり、私が大森さんに関する記憶の中で指折り大切にしているものだ。
その一方で、特にここ最近は立て続けのリリースに果たして自分が追いつけているのかと思うことはしばしばあった。
「流星ヘブン」から1ヶ月、これを書いている今にも突然新曲が公開されるのではないだろうかとすら思う。私は全然、大森さんに追いつけていない。それを見透かされているような歌詞に応えたくて、私はこれを綴っている。
消えてしまうものはなんだろうか。一秒毎に変わっていくのが大森さんだとしたら、一秒前の大森さんはもう消えてしまったのだろうか。
例えば「あの時の大森さんの気持ち」「あの時の大森さんの声」、前髪の1ミリのズレ、ひょっとしたら一秒で消えてしまうかもしれないものに追いつくには、私はどうしたらいいのだろうか。大森さんに追いつけることが一瞬でもあるだろうか。
思えば歌っている大森さんと目が合った時、タワーレコードなんば店での"大丈夫な日の私だけを見つめてよ"、あの時は全部が繋がっているような心地がした。あの一瞬を逃さないように、追いつけるように、私は私の暮らしを重ねていくしかないのだろう。

天国はそこらじゅうにある ただそこらじゅうで爆破する
死ぬことが人生において唯一の結果なのだから
優勝が欲しいなら 今ここで どの私を殺そうか

前作『kitixxxgaia』や、「君と映画」(『絶対少女』)などで誰でもなれる自分だけの神様について歌われきたが、ここで「天国」という言葉が登場する。
この歌詞は消化できていないので保留。

音楽での成功は続けることだけと何時ぞや(2017年2月22日のラジオだったと思う)話していたが、大森さんが死ぬまで歌い続けるかどうかは大森さんが死なないとわからないし、仮に双方老衰を迎えた場合、私は大森さんよりギリギリ先に死ぬかもしれない。ウケる。
かつて、二次元の好きなキャラクターがいつも死んでしまうという人から「でも、好きな人の死因が知れるんだよ?」と言われ、目から鱗が落ちたことがある。確かに、天化の死因は知っているけれど水野くんの死因は知らない、知りたくないけど。
なぜ突然死因について考えたのかというと、「流星ヘブン」に登場する「死」の中で、この箇所だけがやけに生身の「死」の匂いがするからだ。
好きな歌手でもバンドマンでもアイドルでもいいが、デカダンスなコンテンツとしての「死」をコンセプトとするものはあるし、ロックスターは27歳で死ぬ。もうすぐで28になる?もう30だよ。
インターネットの住人はアカウントを消せば死ねるように、ステージに立つ人にとっては引退と社会的な死はニアリーかもしれない。
けれど、大森さんのいう「死ぬまで続ける」からは、命が消える死のことを思う。
生身の人間が今作り出す瞬間芸術に触れると、生きていることがすごい速さで過ぎ去っていく。それは即ち死に向かって進んでいるのだという実感で、生の実感はきたる死を意識しなければ得られない。
死ぬまで繰り返す、死ぬまで繰り返す、と、薄暗い穴のようなステージで歌っていた大森さんを思い出す。2013年4月、京都ボックスホールでのこと。私はいつか死ぬし、大森さんもいつか死ぬ。このごく当たり前の事実が少し理解できた気がする。

「優勝」と聞くと暇な女子大生さん(好き)のことを思い出すが、それは置いといて。
私はこの個所で「セルアウトするなら心はねじ曲がるけどわかってるよね、」と確認されているように感じた。そしてそれは、俯瞰的な態度だと思っている。

最初から希望とか歌っておけばよかったわ
(「TOKYO BLACK HOLE」/『TOKYO BLACK HOLE』)

愛とか平和とか歌いだす前に 早く一番をちょうだいよ
(「私は面白い絶対面白い多分」/『洗脳』)

大森さんは音楽を広く届けるため様々な活動を重ねているが、届けたいものを変質させることはないと私は思っている。それは大森さんを求める私(とあと知らんけど他の人)のためであると同時に、大森さんの音楽を必要としているまだ大森さんにたどり着いていない誰かのためだ。
私を殺さないまま優勝すること、それは前述の「この世界に愛される」ことに繋がる。

それと同時に、今まで大森さんが殺さざるを得なかった大森さんにも思いを馳せる。私には知る由もないし知る必要もないが、大森さんが大森さんや大森さんと音楽を作る人や大森さんのことを好きな人のために殺してきた大森さんだって、きっといるのだろう。
私が勝手に想像して勝手に悲観する必要はないが、今自分の手の中にある作品とは、できる限り真摯に向き合いたいと思った。

a.叫びを閉じ込めたその部屋こそが居場所だろ
a.不幸に守られた 君を引きずり出したい
アイから目をそらすなよ 狂気に化けた夜にこそ

大森さんが「部屋」というと私はすぐワンルームを連想する。
既存曲でいっとう好きな歌詞は「歌謡曲」(『魔法が使えないなら死にたい』)の「お気に入り 使い古した絶望」だ。「絶望」に添えられる「お気に入り」という柔らかい言葉の組み合わせは、私の思う大森さんの優しさを象徴する。
「不幸に守られた」にも同じ印象を持っている。例えば「私なんて」と自虐で武装すること、自責に走ることで他者との対立を避けること、それは自分を守っているのだとわかっているから「不幸」に「守られた」という言葉が続くのではないかと思う。
その上で「引きずり出したい」と歌ってくれることは、単に「あなたは悪くないよ」「落ち込まないでいいよ」と言われるのとは全く違う安心を私に与えてくれる。
「アイ」は片仮名で記される。掛詞だとしたら「I」と「愛」だろうか?
以前大森さんのプロフィールに「エゴサは愛」と書かれていた。ともすれば悪口にもリプライを送ることをよく思わない人も世の中にはいるのかも知れないが、わざわざ自分を嫌いだと述べる人に向き合うことは、相手が好きでなければできないんじゃないだろうか。
私なんて、ただごく普通のリプライを送ってくれた人を即座にブロックしていた。
狂気に化けるものはなにか、アイ?
愛が狂気に変わるだなんてメロドラマのようだけど「憎くなければ愛ではない」と思っているので、愛が狂気に化けることもあるだろう。

自分を肯定するための第一段階は、今の自分を認めることだ、と聞く。
言いたいことも言えずに閉じこもった部屋、不幸を貼り付けることで傷つくことを避けるような暮らしに心当たりはあるか。私はある。その現状を良いも悪いもなくただそれがあると指摘されることは、それだけで救いだ。

生きる方を選んでく 生きるほうを選んでく

"ヘブン"

流星"ヘブン"

歌詞カードでは「私」と「流星」で改行が入るが、音楽だけ聴いていると「私、流星」という区切りに聴こえる。
流星のイメージ、光って消えていくもの、そう言えば私は流れ星を見たことがない。大森さんは流星なのかな、光ってすぐ消えたら嫌だな、でもゆくゆくはヘブンに集まるのかな、そういえば銀河鉄道から流れ星は見えるのだろうか。どうしてカムパネルラが死ななくてはいけなかったのか私には今も理解できない。

私の魂みてください

「いのち」と「命の使い方」と「魂」は似て非なるものだ。
「命の使い方」が、超歌手としての創作物やそれにまつわる活動だとしたら、「魂」は大森靖子が芸術や世界に対してもつ姿勢や態度のことかなと思う。(「美学」はしっくりこない)
『洗脳』発売時は「脳を洗う」だけでなく「見せ合いっこ」と話していたと記憶しているが、ここでは「魂みてください」と開示してくれているのだ。大森さんはよく「アイドルは好きになることを許してくれる」と話すが、大森さんは魂をみることを許してくれる。「命の使い方」だけでなく「魂」まで、大盤振る舞いだ。
私が大森さんが大森さんに出会ったのは多感な時期も過ぎ人生観も価値観もそれなりに出来上がっていた頃だったので、あの頃好きだった誰か程は私の根幹には影響を及ぼさずむしろ似ているところを見つけたいだけなのかなとも思う。
影響が少なくとも、大森さんの生き様を見ているとそれだけで「ああ私も生きようかな」と思う時がある。大森さんは超歌手だから、音楽にまつわること以外を求めるのは無粋だといつも思っているのにそれ以外に触れたいと思うことがやめられない。けど大森さんが「魂みてください」と言ってくれているのだから、みる。

誰かのためだなんかに 死ぬことなんて許さない
口パクで愛してるなんて 誰でもいいならここに居て
都合よく好きな一瞬を 永遠にされるのが怖い
君が他界したあとも 私の命は続く

思い出すのは高校時代に読んだ寺山修司『青少年のための自殺学入門』、外因によって死を選ぶのは自殺ではなく他殺であると説くこの本を読んで、私には『巌頭之感』は書けやしないから死ぬのはやめようと思った。
メジャーデビューシングル「きゅるきゅる」では「誰でもいいなら私でいいじゃん」と歌っていたが、「誰でもいいならここに居て」とは、より強くかつ直球の願望だ。
「でっかい愛をあげる」が1を100にするとしたら、死ぬことを許さずここに居てと望まれることは0を1にする。

一瞬を永遠にされること、例えば動画のスクリーンショットは本当に簡単に取れるのでいい感じでない顔だっていくらでも用意できる。今まさに何かを表現している人たちは本当に大変だな、と思うことがある。意図的に半目の画像なんて作られたら、私なら寝込む。
ツイートの一部だけを切り取られて拡散されることだってそうだ。前後関係に文脈、背景事情、少し考えれば存在しているに違いないものを無視して一部しか見ない人は怖いし、きっと私もどこかで同じことをしている。
それは当たり前に「怖い」ことだろう、想像力の欠如は恐ろしい。私の想像力は足りているか?

この「他界」は「死ぬ」だけでなく、アイドル用語としての「ファンをやめる」の意味も含まれているのだと思う。
アカウントの削除による仮想的な自殺もそうだが、ネット上以外で関わりがあっても所謂「現場」に行かなくなればその後の生死がわからなくなることはザラだ。
私が例え大森さんを見に行かなくなっても、大森さんは生きていくのだ。今のところ想像はつかないけれど。

ステージに立つ側と見る側は奇妙な関係だ。
私は、ステージから与えられるものはそのまま受け取るもので、それにとやかく文句をつけるくらいなら受け取らなければいいと思っている。運営に過剰なイチャモンをつける人が好きじゃない、ということ。
そして私は大森さんを選んで大森さんを聴いているが、ある日突然私が大森さんを聴かなくなっても、大森さんがそれを引き留める手立てはきっとないだろう(いや、引き留めないと思うけど)。双方に主体性はあるけれど、パワーバランスは均衡とも並行とも思えない。「他界」するもしないも当然だが私次第だ。
「命は続く」は他界した人への恨み節ではないだろう。たとえ短い期間であっても人生が交わった人の命が続いていることについて、私はもう少し、たまにでいいから考えた方がいいかもしれないと思った。ハッとしたのだ。私が縁を切ったあの人もあの人もあの人も、生きてたり死んでたりするのだ。
大森さんを通り越して万物の生命に思いを馳せてしまったが、「推し変したあの子にも卒業したあの子にも、その後の人生があるんだよ」と胸ぐら掴んで言い聞かせてやりたい。

喉が渇いたけれど 汗よりも涙よりも
からだのある わたしを 魂で射抜いてください

命を消し魂を見せつけ概念になりゆく大森靖子を作るのは、大森さんだ。大森さんをすぐ神様や天国にしてしまいそうになるが、「からだのあるわたし」というフレーズをここで受け取る。からだがある生身の人間だからこそ、こちらも投げ返せるものは魂なのか。射抜けるのか。
この文章は「流星ヘブン」の歌詞は「大森さんから私(とか他の誰か)へ」のものだという前提でここまで書いてきた。そんな気がしたからだ。
だとしたら「射抜いてください」と言われているのは私(やこれを読んでいる誰か)に他ならないが、「愛して」「ここに居て」に続いて「射抜いて」だ。大森さんはライブを観ている人の表情の豊かさをたまにMCで話すが、その時私は自分がその場にいることの責任というか、自分が匿名ではないことを感じる。
笑いたければ笑えばいいし、つまらないとき無理に楽しそうにしなくてもいい、あと私はステージの上から与えられるもの以外いらないので、「盛り上げないと」という気持ちは全くないが、私が受け取れたものや返したもの(汚い顔で泣く、とか)が、大なり小なり外部に影響してその場が作られるのだとしたら、私は匿名ではなくて、私にとって大森さんが大森さんであるように、大森さんにとっても私も私なのかな、と思った。
なので、射抜かれたら射抜き返す双方向が、たまにでいいから出来たらなと思う。

もうね、これ1万字くらい書いてるから段々ポエムってきてて、でも本当にこう思ってるんですけど、急に恥ずかしくなってきたっていうか、お茶を濁したくなってきて、つまりこちらの魂を投げ返す自信がなくて、今書いてるこれも自分でやらせっていうか、陶酔してない?感じたことを言葉にしてる?頭使ってない?でっち上げてない?って思いながら書いてるんですよ、射抜けてますか?大森さん。答えてくれなくていいけど。

消えてしまう前の私に 一瞬でもいい 追いついて
天国はそこらじゅうにある ただそこらじゅうで爆破する

死ぬことが人生において 唯一の結果なのだから
優勝が欲しいなら 今ここで どの私を殺そうか

「流星ヘブン」の歌詞は、私が好きな大森さんのあり方が随所に込められているように思う。繰り返し読んだブログやインタビューで述べられていたことが直接的ではない言葉選びで綴られる歌詞は私にとっての大森靖子像と一致するもので、私の思う「わたしみ」ならぬ「大森さんみ」はこの「流星ヘブン」に集約されている。
なので、時間にすれば数分のこの曲を聴くたびに私はこの数年の間に大森さんを観てきたこと、大森さんの考えに触れてたこと、その間の私に起きた出来事、様々なことを思い出す。

もし大森さんが「この歌詞は私っぽくない誰かを想定して書いてまーす」と言えば、私の思う「大森さんみ」はてんで的外れなものだということになってしまう。全然追いつけてない。駄目じゃん。
願わくば私の思う「大森さんみ」と大森さんの思う「わたしみ」が少しでも重なってほしいし、今重なっていなくとも私は自分が大森さんの音楽に惹かれる限り、大森さんへの理解を諦めたくない。