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白昼夢、或いは全部勘違い

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「絶対彼女」と少年とギターと膝小僧

2017年6月に行われたプチツアー「COCOROM」の3日目、神戸にて。
大森さんの指揮に合わせた様々な属性の人々の合唱が定番である「絶対彼女」の中盤、いつも通りの「女子」や「おっさん」ののちに、「少年!」と大森さんが叫んだ。
それに応えて歌っていたのは、おそらく一人だった。
一人で頑張る少年、途中から畠山さんが、その少年の声に合わせてギターを重ねていた。

私は「これが、少年と、少年だ!」と思った。

そして思い出した。
「あ、私、少年になりたかったんだ。」

2006年度センター試験の現代文にて出題された「ぼくはかぐや姫」という小説をご存知だろうか。
私は現役受験生の時に本番で解いた。
(なので、大森さんも解いたのかもしれない。)
残念ながら現在は絶版されており、私は市立図書館で読んだ。
主人公は二人の女の子で、彼女たちは自分のことを「僕」と呼ぶ。
巷では「僕っ娘百合小説」なんて呼ばれているらしいが、なぜ彼女たちが自分を「僕」と呼ぶのか、その理由が膝を打つものだった。
前述の通り手元に本がないのでうろ覚えで大変申し訳ないが、要約すると以下のような理由だ。
「僕」ではなく「私」と自分を呼ぶことは、自分が女であることを認めたことになるが、自分はまだ与えられただけに過ぎない自分の性別を受け入れるのか決めかねる。
なので、暫定的に「自分は女であること」を保留する態度を示すために「僕」を遣うのだと、そのようなことが書いてあった。
それは「男になりたい」というわけではなく。
(もっと美しい文章で述べられていたので、気になる人は図書館か復刊ドットコムに行ってくれ)

私もかつて「僕っ娘」だった。
自分を「私」と呼ぶことが気持ちが悪くて、「僕」を選んだ。
それは、「男になりたい」わけでも「女がいや」なわけでもなく、与えられた性別が貼り付けられることがいやだったのだと、この本によって気付かされた。

「少年」になりたかった。
スカートなんて履いたことがなかった。
赤いランドセルが気持ち悪くて、無理を言って紺色を買ってもらった。
(20年以上前の田舎の話、随分と融通のきく親だったと思う。)

私にとって「少年」になることは、「男の子」になることではなく、「性別から自由になること」だったんだなと、畠山さんの膝小僧を見ながら思った。

そしてこの話はそのうち「GIRL'S GIRL」の話に続くかもしれないし、続かないかもしれない。
「女の子」という最高で最低のカルマ。