白昼夢、或いは全部勘違い

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光が反対から見たらクソで恥だとしても

結局「ラストダンス」が何を示唆しているのかはいまいちわからなかったが、具体的に想像し過ぎるのも野暮かな、とか。
曲そのものは繰り返しが多いし構成も長さもコンパクトなのに、難しい。
何て思っている時点で、頭で受け止めようとしている、もっと感覚的に掴みたいのにそれが出来ない。

ラストダンス

あーこれくらい平気 って 放っといた傷口 化膿して致死量の憂鬱を
チョコとかアイスとか まいにちのんでたら しあわせのくすり 効果薄れた

いきなり歌詞と全く関係のない話をするが、私が世界で一番好きな漫画は楠本まき先生の「致死量ドーリス」である。
「致死量の憂鬱」ということから何がわかるか、人は憂鬱が過ぎると死ぬっていうことだよ。
ところで過食嘔吐の経験はあるだろうか。私は半年に一回くらい、本当にどうしようもない時にやる。
嘔吐は苦しい。実に苦しいので、その時は嘔吐の苦しさ以外何も考えないで済む。何の話だ。
私が過食フレンズに聞きまわった調査結果によると、チョコとアイスはランキング上位であった。
泣きながら板チョコを一枚食べ切ったときの後悔、ピーナッツ入りのブロックチョコレートを一気に食べた次の日当たり前に出来ているニキビ。
チョコを飲むように食べたことはあるか。チョコレート大好き。
私の過食日記(我的過食日記)はどうでもよいが、常々私が綴っているとおり、その出来事が歌詞にされることに意味がある。
「大森さんはチョコとアイス派なのかな」と思うこと、世界のどこかで知らない誰かが「わかる」と思っているであろうこと、それがいいのだ。食べ過ぎているとも吐いているともここには書かれていないけれど。

ラストダンス キメたい アナログな性純のささくれ 痛みで
ラストダンス キメたい 誰かの正義 受け流して
ラストダンス キメたい こうなってまだ3日なんてことは さておき
ラストダンス キメたい 来世も引き続き狂ってるの
大好き 大好き 大好き 殺したい

AメロからBメロなしでサビに行く、スピード感ある構成。
歌詞カードをよく読むのは最高だと思わせてくれるギミックが仕込んである。
この箇所、あの「清純」ではなく、「性純」なのだ。
「性」と「純」、一見対立する言葉を並べているようであるが、性が純でないと誰が決めたのか、そもそも性ってなに?と考えたいことはいくらでも浮かんでくる。
「アナログ」から私が思い浮かべたのは、インターネットではない生身の体験だ。
このアルバムの発売記念LINE LIVEで大森さんがファンの子から「筆箱なくして辛い」と連絡をもらった話をしてくれた。
筆箱をなくすこと、もし私が中学生だったら、高校生だったら、きっと信じられないくらい辛いだろう。
今はそんなに辛くないというか、辛さの種類が違う。私は万年筆沼に片足を突っ込んでいるので、失う文房具の総額を思うと辛い。
あのペン、あの定規、あのプリクラ、あのシール、一つ一つに与えていた価値を、私はいつ手放したのだろうか。もう思い出せない。
それはさておき、このSNS時代にも確かにある、日常の手に触れるような辛さ、これって「アナログ」だなぁ、と思った。
なので、「アナログな性純のささくれ」から、人と人とがぶつかって受ける傷のなかで、ざらざらとしてずっと密かにグジグジ痛いささくれを思う。

大森さんの発言の中で私が指折り心にとどめているものに「覚えていることを覚えているまま忘れる」というものがある。
誰かの正義は私にとって正義かどうかわからない。私を傷つけるものかも知れない。
正義、というからには大層なものなのだろうが、それが自分にとって都合が悪くとも対峙しなければいけない時もある。
真正面から受け止めていたら、まあ、疲れる。
私は割と馬鹿正直なのでそればかりやって疲れていたが、受け流してもいいかもな、と思った。
受け流すのはきっと、受け止めることより難しい。武道みたいだな。

大森さんが出演していた連ドラのセリフからの引用だろうか。
あのドラマでは、簡単に言うと「大好き」がオセロみたいに裏返ったら「殺したい」になると述べられていた。
私はこの「殺したい」を、撲殺したいとか刺殺したいとか、そういう本当に命を絶つような殺意ではなくて、「忘れたい」「はじめから全部なかったことにしたい」というイメージで受け止めている。
「死にたい」っていう時本当に死にたい時とそうで無い時があるような、言うならば「殺したみ」のような印象。
好きの反対は無関心、とよく聞くけれど、好きの対極はもう関わりたくない、かな、とか、そんなことを考えた。

あー恋愛だってだけ多少は盛り上がる
誰でもいいような 遊びで死ぬなんて
馬鹿になれることが それでもリアルなら
しあわせだって 幻じゃないのに

ここの歌詞が私には一番難解というか、このアルバムは大森さんが自分のことを歌ったとラジオで述べていたが、特に大森さんの気持ちが想像し辛かった。
それはここが特別解りにくい言葉が使われているという訳ではなく、大森さんと私の、恋愛に関する体験が近しくないからかな、と思う。
「めっちゃわかる」と言う人の話を聞いてみたい。リプライとかコメントとかで教えてほしい。

ラストダンス キメたい あなたの理想が肉体を持ったら
ラストダンス キメたい 抱きしめたって消えはしない
ラストダンス キメたい 私が生きていることを 痛みで
ラストダンス キメたい 今だけ私を見て欲しい
大好き 大好き 大好き 殺したい

この「あなた」が、大森さんの聴き手である私だとして、私の理想が肉体を持つとはどういうことだろうか。
二つ考えた。
一つは、私が(もしかしたら無意識に)理想だと思っていたものが、具現化されたものが大森さんである、ということ。
もう一つは、大森さんを聴く事によって、私が自分の理想を自分の手で具体化する、ということ。
並べてみたが、正直どちらもあまりしっくりきていない。

「私が生きていることを」「私を見て欲しい」から想像するのは、ステージの上の大森さんだ。
なのでここでの「ラストダンス」は、大森さんの人前での表現活動かな、と思う。
すると、その2行をつなぐのが「痛み」であることが引っ掛かる。
痛いのは誰だ、おそらく莫大なエネルギーをもってステージに立つ大森さんか、ズタボロの日常を引っ提げて、泣きながらステージを眺めている私か、もしかしたらその両方なのか。

あなたの欲しがる光はきっと 私の恥だから
殺す気で会いにきてくれないと
私の孤独には 触れないから それでもあなたの運命も永遠も
ここにしかない もう避けられない
壊しても壊れないから
抱きしめて

この箇所から、私は大森さんの音楽と向き合う際の、こちら側の心構えや態度について考える。
歌とはそもそも、自分の書いた詩に音楽をつけて人前で歌っているものだ。
「恥」とまでいくのかはわからないが、私が当たり前に享受している大森さんの曲たちは、大森さんの心の奥から生み出されたもので、私はそれに平気で手を伸ばしているのだと改めて思った。
ならば、それ相応の覚悟を持つようにと言われているようなこの歌詞を読み、最後の「抱きしめる」に到達する方法を考える。
「殺す気」「壊しても」といささか物騒な言葉が並ぶが、そのくらいの覚悟で来いよ、ということか。
私が大森さんの歌詞について御託を並べるのは少なくないことだが、壊すくらいのつもりで歌詞と向き合えているだろうか。
壊すつもりは、自覚としては全くないというか、私が何かを述べたところで壊れるものだと全く思っていない。
この、「自分は無力だから」という態度が、もしや、心構えとして不足しているのでは?と今考えている。全部消そうかな。

大森さんは、たまにTwitterでふぁぼをくれるので、読んでくれていると思う。
大森さんに読まれて恥ずかしくない感想が書けているのか、いや、恥ずかしいくらいの感想が書けているのか。
抱きしめるってなんだ。
私は大森さんが好きだから、大森さんが抱きしめてというのなら抱きしめたい。
抱きしめるということ、受け止めるということなのかな、と思っている。
「クソカワ」とされる「クソである部分、人としてどうかという部分」も込みで、まずは受け止めるということ。
そもそもそれを欲しがったのは私だから。
私からみたら光である部分が、大森さんからみたら実はクソで恥なのかも知れない。

それでもいい、大森さんが見せてくれるものを欲しがり続けていきたいと思う私は、欲張りだ。

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