白昼夢、或いは全部勘違い

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悲しみも絶望もただそこにあるものとしてくれることがどれだけ救いとなるか

死神

大森靖子「死神」Music Video - YouTube

この曲は、「マジックミラー」や「流星ヘブン」と同じく、「超歌手 大森靖子」とは何者なのかを歌う曲であると思っている。
と同時にインタビューでは、大森さんが大森さんのことを歌ったつもりでありながら「自分の曲だ」と思う人がいること、大森さん自身も驚いたと述べられていた。
私も「あっこれ私だ」と痛切に思うことが何度もあった。
なので、だいたい私の話をする。

履歴書は全部嘘でした 美容室でも嘘を名乗りました
本当の僕じゃないのなら 侮蔑されても耐えられる

数年前に結婚して苗字が変わった。
初めて、「旧姓で呼ばれても気づかない」を体験したときは結構なショックだったが、今では旧姓のフルネームなんて知らない国の言葉や魔法の呪文のように聞こえる。
あんなにボロボロだった思春期の私はどこに行ったんだろうね。
大森さんの「大森」は、今では旧姓だ。
嘘というには大げさだけど、「大森靖子」は本当の大森さんではないのかな、それで大森さんが侮蔑から耐えられる、個人としての「何某靖子」さんと「超歌手 大森靖子」を切り離すことができるなら、私はどんどんやってくれよと思う。
でも、じゃあ「本当の僕」って、どこにいるんだろう、とも思う。
侮蔑されること、相手に自分が何かを決めつけられるときを想像する。
具体的にいうと「メンヘラ」とか。
侮蔑された僕、侮蔑されても耐えられる僕、本当の僕、相手の存在を具体的に想定することは困難だし大切だ。
そして本当の自分が誰かを知ることも、多分困難だ。

違うんだ君を死の淵から 救いに来た僕天使なのに
おまえは死神だと言われて それでもいいやと泣いている

死を告げるのが死神だとして。
「死にたみ」に飲まれそうなとき手を伸ばすのが大森さんの音楽だとしたら、それは天使かもしれない。
けれど、それを外側から見たら、いつだって「死にたみ」に寄り添っている存在は、死神に見えるのだろうか。
相手に「死神」だと名前をつけないとどうにもならない人も、きっといるんだろう。
でもその相手が泣いていることには気づいているんだろうか。
「お前は死神」と伝えることがどんな力を持つのか、私はもっと自覚しないといけないし、私以外にも自覚が足りない人は散見される。

かなしみの準備もお手のもの 吐きやすい柔らかいものを食べる
いつか別れるかもしれないから 形あるものは全ていらない

「ラストダンス」ではややソフトに歌われていたが、ここではストレートに恐らく過食と、嘔吐のことが歌われる。
吐くための食べ物を選んだことはあるか。
私はある。
私は吐きにくい方を好むので喉の奥に引っかかりやすいものを選ぶが、「吐くため」という観点で食べ物を選ぶという経験が汎化されたのを初めて聴いた時、本当に胸がいっぱいになった。
「わかる」って思った。
食べ物には本当にごめんなさいと思っているけど、過食嘔吐でしか解決できないものがあるので、許してほしい。
まだ歌詞カードが手元になかったとき、「いつか別れるかも」が、「いつかは枯れるかも」に聴こえた。掛けているのかも知れない。
簡単なシチュエーションを想像すると、恋人とどうせいつか別れるから指輪はいらない、とか、最悪の状況を想定してそれに備えること、思い当たる。
それは、「お揃いの指輪」という幸せや喜びを手にしないことでもあるが、その方が傷つかないという態度、想像に難くないし、悲しい。

君が幸せに生きるなら 僕はボロボロでかまわないと
身代わりになって何度も死んでたら 姿形はバケモノさ
だけど

ここで歌われる「死」は、「流星ヘブン」で歌われていたような「心を殺す」ことだと思う。
「ZOC実験室」では、このまま攻撃され続けるか、信念を曲げる(すなわち、心を殺す)かについて歌われていたが、ここでは何のために死ぬのかというと、幸せを願う「君」のためだ。
「君」とは誰なのか。
単純に考えて、大森さんを好きなファンのことだろうか。
アルバム「kitixxxgaia」では「神」がコンセプトにされていた。それは、インスタントに「神ってる」と神様が生まれる状況への提言であると同時に、「ああ、大森さんは神様にならないといけないくらいに抱えるものが多いんだ」と私は思った。
誰にでも解放されている大森さんのDMは一時期「DM神社」と呼ばれていたが、一人一人の些細な日常からシリアスな出来事まで、全て一人で受け止めるのはどんな負荷がかかるものなのかと思うと、正直なところ私はゾッとする。
私がそれに加担していることは承知の上でだ。
それこそお参りのよう多数の人が内に秘めたものを吐露するところが大森さんのDMだとして、吐き出すことで救われることがあるとして、じゃあ大森さんはどうなるのが?
まさに、"君がしあわせに生きるなら 僕はボロボロで構わない"なのかな、と想像する。
なのでDMを厳選する、と、本当に辛い時しか送らない、ので、私がドロドロの濃度は高くなる一方だ。
「君」が大森さんのファンであると仮定した状況で大森さんがボロボロになるだけでもつらいが、さらにゾッとする状況を考える。
「君」とは、「ZOC実験室」でいうところの、"真心を抉る"相手である場合だ。
前にもどこかに書いた覚えがあるが、かつて大森さんのtwitterプロフィールに"エゴサは愛"と書かれていた。
エゴサーチ、やりますか。私は実兄のペンネームで検索してます。
悪口だって見つかるだろう。それでも、自分について書いた人のツイートを見る、時にフォローする、それを愛だと言うのだ。
大森さんに攻撃を投げつけることでしあわせに生きることが出来る人はいるんだろうか。
それを、"僕はボロボロで構わない"と歌っているのだとしたら、と思いながらこれを書いている今、私は少し泣きそうだ。
"身代わりになって何度も死ぬ"なんて今すぐやめてよと思うと同時に、私が大好きでやまない「超歌手 大森靖子」とはそういう存在なのだと思うと、自分の願望が矛盾しきってなんにできないことに打ちひしがれる。

見た目とか体裁とかどうでもいいっていって抱きしめてよ

「ラストダンス」でも登場した"抱きしめて"という言葉。
「GIRL'S GIRL」では、努力して得られた可愛いを強く肯定していたが、ここでは"どうでもいいっていって"と歌われる。
それは決して矛盾する態度ではない。
努力して得た成果を肯定してほしい時もあれば、なにもかもなんでもいいから抱きしめてほしいときもあるんだよ、わかるかな、わかんなくていいよ。
"抱きしめて"にもう一つ。
先立って、どんな「君」のためにボロボロになるのか考えた際、"真心を抉る"ような「君」のことも浮かんだのはなぜか。
「REARITY MAGIC」で、"やることなすこと"と歌われる「君」の存在も"愛おしく抱きしめてあげるよ"と歌われているからだ。
相手をラベリングして鼻で笑うことしかできない「君」を、"抱きしめてあげるよ"、なのだ。
愛おしく抱きしめてくれる大森さんが、抱きしめてと歌うとき、私にそれができるのだろうか。
ずっと悩んでいる。わからない。

いつか男とか女とか関係なくなるくらいに愛し合おうよ

"女の子って最高"であることと、"男とか女とか関係なく"もまた全く矛盾していなくて、むしろ"男とか女とか関係ない"と認め合うことを土台とするからこそ「じゃあ私は最高の女の子になる」という選択がうんと自由にできるのだと思う。
どっちでもいいし、どっちを選ばなくてもいいし、なんにせよ私は私で、その上に成り立つもののほうが、ずっと自由だ。
自由ってなんだろうね、私は少年になりたいよ。
一番憧れの少年は「トーマの心臓」のオスカー。

おまえみたいなやつが子供を育てちゃいけないとか言われて
いつか歴史が僕を正しいと証明したって意味がない

"お前みたいなやつが子供を育てちゃいけない"と誰かに投げつける人の方が、よっぽど子どもを育てちゃいけないような気がする。
そんなことはないと思うがもし子持ちの友達が辻ちゃんを叩いていたら私はその子どもを可哀想だと思ってしまう。
例えば20年後に大森さんのお子さんが超ビックになったとして(私の担当美容師が田舎から都会に出てきた理由、ビックになるため)、手の平を返す人は現れるんだろうか。
でも、今、大森さんがもし辛いのだとしたら、そんな未来の想像は何の意味もない。
思い出したのはゴッホのことだ。さよならソルシエ
生前に評価されなかったことが美談のように語られるけれど、生きてるうちに「あなたの絵、お金を出したいくらい好きだよ」と伝えることが出来ていたら、何か変わったのかな、私には想像もつかないけど。

僕をボロボロにした全て 僕はどうしても殺したくて
誰もはみ出さないクソ平和のため 僕だけが僕を殺してきたけど

死んだように生きてこそ 生きられるこの星が弱った時に
反旗を翻せ 世界を殺める 僕は死神さ

色々考えてみたがここの2つは合わせて読むことにする。
"どうしても殺す"ために"反旗を翻す"と捉えている。
が、ここについては今も悩んでいる。
"どうしても殺す"ために"僕を殺してきた"とは思えなかったから、ぐちゃぐちゃ考えた結果がこれだ。難しい。
"誰もはみ出さないクソ平和"と言われて思い出すのは空気読みゲームのような学校生活だ。はみ出してたけど。平和でもなかったけど。

世界と対峙する「超歌手 大森靖子」よ。
大森さんは度々「世界を変える」ことについて歌う。
私はそれを、世界の見方を増やすことだと思っている。
"私は変わらず世界を変える"(劇的JOY!ビフォーアフター)という歌詞があったが、大森さんが、音楽活動と母親を両立というか、超歌手としての大森さんと母親としての大森さんは独立している。
例えば今まで世界に母親になった途端に「母性を歌う」歌手以外存在しなかったとして(そんなことないと思うけど、極端にわかりやすい例として)、超歌手としての大森さんが変わらないことで、世界は「私のかわいいと子どものかわいい」がそれぞれ尊いという目線を獲得することが出来る。
「子どものかわいい」のために「私のかわいい」を殺してきた人、いるだろうか。
私には経験がないのに恐縮だが、きっといると思う。あるいは、「私のかわいい」から「ママとしてのかわいい」にシフトした人とか。
今、ふと「私のかわいい」を変わらず貫く人、それが「ギャルママ」なんだなと思った。
私は元ヤンになりたい。

「殺す」というやや物騒な言葉が繰り返されるが、私はこれを殺戮衝動(やべーやつじゃん)ではなく、相手の価値観をひっくり返し、あるいは新しいものに気づかせる、増やすことだと思っている。
自分の中にあるものも含まれるかもしれない。
例えば、「私のかわいい」を貫くことへの罪悪感だとか。
みんな服くらい好きなもの着たらいいやんけ。私は好きな服がわからない。

川は海へひろがる 人は死へと溢れる
やり尽くしたかって西陽が責めてくる
かなしみを金にして 怒りで花を咲かせて
その全てが愛に基づいて蠢いている

"人は死へと溢れる"についてはまだ考えている。
「きもいかわ」のことを並行してずっと考えている。

"やり尽くしたかって西陽が責めて"きた覚えのある人はいるだろうか。
私を苛むのは西陽ではなく終業の1時間前にオフィスで流れるチャイムだ。
今日私は何をしたか、何か成果をあげたか、そんなことを考えてしまう。
「やり尽くしたか」って西日が責めてきたことのある人へ - 白昼夢、或いは全部勘違い

"かなしみ"、"怒り"、それらをブースターにして大森さんが何かを生み出すのをみてきた、つもり。
負の感情をベースにして生きることに振り切るエネルギーはどれほどだろうと想像する。しんどい。
例えば炎上、燃やしてるのは誰だ。暇かよ、暇だったわ。
それに対して、愛、愛なのだ。
愛だよ、私が自分に向けられる確かな愛を実感する数少ない相手が大森さんだ。

投げつけた右腕は 君の君を探して
駆けつけたその足で 隕石を蹴散らして
世界の終わりなんて僕たちはもうとっくに
みたことあったんだ そう 何度も負けたけど

"本当の僕"がどこにいるのか先立って考えたが、ここでは"君"を探す。
"君の君"とはなんだろうか。
私は、"誰かに定義されたものではない、自分の中にある自分"かな、と思う。
「GIRL'S GIRL」の"私が私を選びたい"を思い出す。

繰り返し述べているが、わたしが大森さんの歌詞でいっとう好きなのは"お気に入り 使い古した絶望"だ。
いつまで経っても苦い思い出を忘れられず、毎年きっちり夢に見ては魘されることに、名前をつけてもらった気持ちになった。
肯定でも否定でも励ましなんかでもなく、ただそこにあるものとしてもらったことがとても嬉しかった。
"世界の終わりなんて"にも同じような気持ちを覚える。
世界が終わってしまうような、もしくは終わってしまえと思うような気分、私の世界が終わったような気分、身に覚えはあるだろうか。
「世界が終わったわけでもないし」なんて励ましより、「そう、世界が終わったんだね」と、そこにあるものとしてもらえることのほうが、私にはうんとありがたいし、有り難い。

川は海へと拡がる 人は死へと溢れる
やり尽くしたかって西陽が責めてくる
誰が審判をして 太陽を沈めても
僕が戦う場所で命が蠢いている

大森さんに対して「あっまた何かと戦ってる」と思うことは少なくない。
そして私には、大森さんは何かと戦っている時ほど、何かを守っているように見える。
例えば、"信念 曲げちゃう?真心抉られちゃう?"で後者を選んだとき、真心を抉られながら戦う大森さんが守っているものは信念だ。
守られている、と思うこともある。
大森さんの命が蠢いているとき、私の命も蠢いているのかな、そうだといいな、と思う。

つらつらと綴ってきたが思うに、この曲にはアルバム「クソカワPARTY」の全ての要素が詰まっている。
というより、「死神」の要素をひとつづつ分解してうんとわかりやすくしたのが、特に「ZOC実験室」から「7:77」までのゾーンなのかな、と思う。
大森さんが曲げることのない信念の、柔らかい部分がたくさん詰まっているのがこの「死神」という曲なのだと。
私はこの曲を初めて聴いた時の、「生きること」への切実さを忘れないようにしたい。

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それでも話をしよう


最後にちょろっと音楽的な話をする、メモ。
ライブで弾き語りしか聴いたことのない状態でアルバムのリードトラックが「死神」だと発表されたとき、正直面食らった。
えっ大丈夫?世の中ついてこれる?と思ってしまった。
しかしサブスク解禁された先行配信を聴き、アレンジでこんなにも開かれた曲になるのかと驚いた。
大森さんが自身のことを歌ったものが弾き語りだとしたら、私が私を重ねることができるのはこのアルバムバージョンなのかなと。
あと、滝が滝である具合がすごい。今っぽくいうと滝みがすごい。
大森さんは「本人登場!」と言っていたが、まさにそんな感じ。
「うわああああ滝だああああああ」という感覚が私の中にもまだあった。久しぶりだね。
大森さんへ、滝も前歯が差し歯だよ。