白昼夢、或いは全部勘違い

白昼夢、或いは全部勘違い

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私の憎くて可哀想な夏が川に流れていきますように

大森靖子ちゃんのアルバム「クソカワPATRY」を初めて聴いた時、「1曲1曲の歌詞の感想を書こう」と決めた。
私は以前から歌詞を細かく取り上げて思ったことをつらつらと書くことを続けているが、大森さんの曲を網羅する気は全くない。
書きたいな、と思った曲に対して書くことを心掛けている。
けれど「クソカワPATRY」は、全曲書こうと決めていた。
それはこのアルバムの歌詞があまりに「わかりやすい」と思ったからだ。
それは大森さんを軽んじているわけでも、難解であるほうを賞賛しているわけでもない。
とにかく「こんなにわかりやすく伝えないと伝わらないんだ」と思った。
「このわかりやすいものを、私がどう受け止めたのか、全部書き留めておきたい」と思い、一人で「クソカワ感想PATRY」を始めた。

「わかりやすい」と言ったがそもそも、音楽に何を求めるかなんて人それぞれだ。
私は大学生の時、ゼミの同級生と行ったカラオケでPeople In The Boxの「始まりの国」を歌い、「歌詞の意味がさっぱりわかんないんだけど、どういうこと?なんでよくわかんない曲聴いてるの?」と聞かれたことがある。
「架空の国境を跨ごうとしている」「行こうかな 戻ろうかな いっそ踊ろうかな」という歌詞に痺れたりはしないのか、そらしない人もいるわ。
恐らく私はあまりわかりやすさを求めていない方の人間なのだろう。
そして私が見積もる「わかりやすさ」と世間の感じる「わかりやすさ」にも乖離があるんだろう。大人になってから気づいた。

「きもいかわ」だって、うんとわかりやすい。
読んでそのままだと私は思っている。
だから、いつまで経ってもこの歌詞の感想が書けなかった。
辛くなるほどわかると思うと同時に、私の理解が的外れだったら私が大森さんを聴いてきた決して短くはない今までや、私が音楽や文学に触れてきた人生は一体なんだったのだと自分にがっかりする。
怖いな、と思いながら、散々言い訳をしながら、私はこれを綴っている。

きもいかわ

いきなり余談だが、アルバム「クソカワPATRY」の1曲目とおしまいの曲はどれだろう。
大森さんはアルバムのセルフライナーノーツで以下のように述べている。

そうして何度も川が海へ拡がるように人が死へと溢れてゆき、消えたと思いきや私は再生される、それを何度も何度もくり返すイメージが、あなたにこのアルバムを再生して貰うたびに起こり、最期の曲で果てるのに、また再生すれば生まれることができる、そのたび私は最強になれると思います。どうかPLAYし、わたしを再生してください。

この「PLAY」は「再生する」だけではく「遊ぶ」だったり「役割を演じる」だったりするんだろうな、と思いつつ。
果ててはまた生まれるというこのアルバムにループする世界のような印象を持っている。
この曲のこことこの曲のここが同じことを歌っていたり違うことを歌っていたり、この曲を踏まえてこの曲を聴くと違うように聴こえたり、「1曲1曲に向き合いたい」と思わせてくれるが、それと同時にこの作品を1つの作品として多面的に見ることにも面白さを感じる。

そのループの中で、この「きもいかわ」は他の曲で散りばめられていた要素が一番詰まっているように思う。
けれどこれ一つで総括されるものでもない。
中学生の頃よく聴いていたスピッツの「フェイクファー」には「楓」が真ん中に収録されていたが、私はどうして「楓」が最後の曲にならなかったのか不思議でならなかった。
理由を知っている人がいたら教えてほしい。別に教えてくれなくてもいい。
「きもいかわ」から「死神」に繋がるループに意味を持たせてしまうのは先にライナーノーツを読んだせいかもしれないが、私は今も、「きもいかわ」のおさまりどころを探している。

ぼくを医者は救えない
ぼくを警察は守れない
あいつを法じゃ裁けない
だからといってきみにかけてはいけない
負担とか 魔法とか 液体とか
ほらやっぱぼくとかいないほうがよかった

「救う」「守る」とはなんだろうか。
例えば大森さんが匿名の悪意に酷く、それこそ死にたくなるほど傷つけられても、守ったり裁いたり、思い知らせてやったりすることはきっと傷つけるよりずっと難しい。
「無敵の人」というネットスラングを思い出した。

大森さんの遣う掛詞が私はとても好きだが、この「かける」は飛び抜けてお気に入りだ。
「負担」「魔法」「液体(体液か、たまにある洗剤をかける不審者のニュースとかのことを思う)」という、接点のない3つが、見事に「きみにかけてはいけない」ものであること、大森さんは軽々とこんな言葉選びをやってのける。
自分への負荷を処理しきれなくて、でも人に頼ることもできなくて、自分を否定する結論に至ること、私は身に覚えしかないが、とてもつらいので大森さんが同じ気持ちならそう思うのはやめてくれよと思ってしまう。
人のことは言えない。

ぼくじゃぼくを救えない
ぼくじゃぼくを戦えない
もっと良い顔が欲しかったなって
この顔は幾千の視界を彩ったり
遮ったり 貫いたり してきたんだろう

この「ぼく」が誰かを考える。
1つめの「ぼく」は一人の人間である大森さん(それは私の知らない大森さんだ)、2つめの「ぼく」は「超歌手 大森靖子」である大森さんかな、と思う。
大森さんは大森さんでいるだけにとどまらず、救ったり戦ったりするために「神」になったり「超歌手」になったりする。
それは「わたし」から生み出された「わたしみ」なのだとして、救えないし戦えないから生み出されたものなのだと思うと、もう、私はつらい気持ちでいっぱいになる。

「顔が欲しかった」からアンパンマンを思い出した。
アンパンマンにも、「今回の顔、ちょっと出来がイマイチだな」とかあるんだろうか。私は一生かかってもドキンちゃんにはなれそうもない。
「彩る」は肯定的な表現だが、「遮る」はなんだろう。
私は大森さんになにかを遮られたことがないのでわからないが、例えば「俺の好きなアイドル大森靖子と絡まないでくれ」とかだろうか。

気持ち悪い 気持ち悪い 気持ち悪い ぼくが一番
ぼくのこと 気持ち悪い 気持ち悪いって思ってるから
もう誰も これ以上 呪いをかけないで

しばしば歌われる「呪い」だが、大森さんの遣う「呪い」が示すものは「悪口に囚われること」かな、と思っている。
一度でも「ブス」と言われたことのある人ならわかるだろうか。鏡を見るのも嫌になるあの感じ、思い出したら辛くなる。ゲボ。
「ぼくのことぼくが一番気持ち悪いって思ってる」と歌わせてしまったこと、私がもっと大森さんに好きだって伝えられてたらこんなこと歌わせずに済んだだろうか、いや私にそんな絶大な力はない。
インターネットで簡単に「ブス」とか言ってる人に突きつけてやりたい。
お前の呪いはそれほど強いし、人を呪わば穴二つだぞ。

助けて 紅の淵に嵌っては 絶望に慣れた日々
助けて 歪んだ人生を真っ直ぐ生きるからぶつかって
痛い 痛い
助けて っつって誰もこなくても平気さ
ぼくはぼくが守るもの
叫んで喉が切れる血の味が好きなだけ
憂鬱は 季節に溶かして流してしまえ

「紅の淵」がどこかはわからない。
これが絶望のイメージだとしたら、黒じゃなくて赤なんだな、と思った。血の色なのかもしれない。
「歪んだ人生を真っ直ぐ生きるからぶつかって 痛い 痛い」と歌われた時、大森さんは本当に優しい人だと思った。私は私が歪んでいるのだと思っていたが、歪んでいるのは人生の方だったのだ。
「私は変わらず世界を変える」と大森さんは歌っていた。大森さんの「世界を変える」ことは世界の捉え方を増やすことだと私は思っている。歪んでいるのは人生の方、という捉え方で、私がどんなに救われるか、大森さんに伝わるといいな。
「救えない」「戦えない」から「守る」。
「きみにかけてはいけない」から「誰もこなくても平気さ」。
強がりなのかもしれない。けれど、「季節に溶かしてながして」しまうことの優しさを私は何度も見てきた。

2015年頃だったか、ラジオに「ある季節が嫌いで仕方ない」と送った人がいた。
大森さんは「季節のせいにするなんて優しい人」と答えた。今だったら気圧とかだろうか。
そういや最近気圧低いですね。こちらはロキソニンをラムネのように飲んでいますが効かねえ。
私は信じられないくらい夏が嫌いだ。春は夏の気配に怯え、秋は夏の残り香に疲れ、冬の寒さの中いつかやってくる夏を思っている。1年中夏のことを考えているほど、夏なんて大嫌い。
それを「優しい」と言ってくれるのは大森さんだけだ。とんでもない優しさだと思っている。
「何が悪い」でも歌われる、季節のせいであること、自分を守ること。

きもい川

「気持ち悪い」の略称「きもい」。
「きもい」が流行ったのは私が中学に入ってすぐだったと記憶しているので、大森さんも同じくらいだろうか。
「ブス」と同レベルの攻撃力を持っていた悪口は「臭い」と「きもい」だった。

「クソカワ」の「カワ」は「可愛い」で「川」で「皮」だとして、ここでは「川」が歌われる。
「川は海へ広がる」「人は死へと溢れる」の、川だ。
大森さんにとっての海は穏やかな内海である瀬戸内海だろうか、「遠く船は沈んだか」は太平洋のイメージ。
「海へ行こうよ」、「海もいいよね」 。
トカレフ」収録の「これで終わりにしたい」では、日本一汚いと言われる川のことが歌われる。
(あの川は、なんか、こう、黒い)
海に繋がる川はドブのようにドロドロしていて、それでも海に繋がることはひらけた希望なのかもしれない。きもい川だ。

ぼくを生きるのはぼくだ
きみを生きるのはきみだ
それが交わるとかありえない
心は "ひとりひとつ" 付き合おうが
まぐわろうが 歌おうが 結婚しようが
なんとなく "ふたりがひとつ" そんな気になれるだけ
気持ち悪い 気持ち悪い 気持ち悪い その先にだけ
なぁ "ひとつ" じゃない "むげん" が拡がれよ

多面的な「ぼくとぼく」が歌われていた1番に続いて、2番では「きみとぼく」が歌われる。
ここで歌われていることはそっくり「わたしみ」でも歌われているように思う。

薬指の心を運命とかにあげても私残り9人も私をぶら下げている(わたしみ)

ひとつとひとつを合わせることで、「ふたつ」ではなく「むげん」になること、なんてロマンチックなのか。
「きみにかけてはいけない」と歌われていた通り、「ふたりがひとつ」になることは「気持ち悪い」ことなのかも知れない。
気持ち悪いその先にだけ拡がる「むげん」、「広がる」ではなく「拡がる」は、自分で拡張したような印象を受ける。

殺して 抱きしめて離さない大好きな何か それが心なら
殺して この心でダメなんならば僕は死んでも仕方ない
殺して きみはきみというだけで愛されるべきからだなのだから
きみは僕じゃなくてもリアルに生きられる
僕は僕じゃなきゃやっぱだめみたいなんです

ここで歌われる生死は、直接的な生死でもあるし、「心を殺す」ことでもあるとして。
「この心でダメならば死んでも仕方ない」からは、信念を貫いてその意思と心中する覚悟を感じる。大森さんは武士なのかな。
「ZOC実験室」で歌われていたこととニアリーイコールなのだろう。こうも伝え方を変化させてくる音楽ってすごいなあと素直に思う。
「殺して」とは誰に頼んでいるのだろうか。
「ラストダンス」では「殺す気で会いにきてくれないと」と歌われていた。あれは「そのくらいの気合をもって真剣に向き合ってほしい」ということだと思っている。
この「殺して」も同じくなのだろうか。これは私にできる一番肯定的な捉え方だ。

私は大森さんが大好きだから、大森さんが好きと言ったものは気になるし、大森さんの思想だって好意的な心構えで受け止めている、つもりだ。
だとしても、「思考停止の全肯定は無視と同じ」が私の美学で、大森さんの思考をトレースしたって何の意味もないと思っている、私はね。
なので、私は私であってもいいのだと大森さんが歌ってくれているのだと勝手に思っている。

「ぼくじゃぼくを救えない」と1番では歌われていたが、「ぼくはぼくじゃなきゃダメ」という答えに行き着く過程が、この曲なのだとしたら。
自分が自分でいることは、つらくて、きみに迷惑をかけることもできず、気持ち悪いもので、それでも離さない心と心中するようなものだと思えば、自分と向き合って生きるとはなんてしんどいことなんだろうと思ってしまう。
それでも、「ぼくじゃなきゃダメ」と思える「ぼく」が、私にもあればいいな、と思う。

きもい皮

「皮」と言われて思いつくのは「ツラの皮」だ。分厚かったりするアレ。
「仮面」と言い換えてもいいかも知れない。外面とか、パブリックイメージとか。
あとは「毛布を巻きつけたまんまの身体をひきずる化け物」。
外に出るための、貼り付けた、中身とは違う「ぼく」。
それが私の思う「きもい皮」だ。

悪口を受け入れた瞬間それがぼくになる
誰かのつくったぼくで生きるのはもう飽きた
きもいかわ 剥がしてよ きもいかわ 流してよ
美しく生きたい 呪いを跳ね除けて 今
助けて

悪口のこと、「ちゃんと傷ついてる」と歌われていた。そして「この心のまま削られる」ように、「ぼく」が「ぼく」を殺さずにいることは、大変なダメージを食らうものなのかもしれない。
それでも、悪口を受け入れることなく、すなわち呪いに囚われることなく、生きようとする姿が、美しくなければなんだろうと、それが美しくあることのできる世界であってくれよと思う。
「可愛く生きたい」は、正直なところピンとこないというか、私の生き方では無いように思った。
けれど、「美しく生きたい」なら、そうありたいなと思う。
「美しく生きる」方法のひとつが「可愛く生きる」なのかな。
私は美学のある人が好きだ。

助けて 紅の淵に嵌っては 絶望に慣れた日々
助けて 歪んだ人生を真っ直ぐ生きるからぶつかって
痛い 痛い
助けて っつって誰もこなくても平気さ
ぼくはぼくを守るもの
叫んで喉が切れる血の味が好きなだけ
憂鬱は 季節に溶かして流してしまえ

きもいかわ

大森さん、今も「助けて」って歌っていますか。
私は今まで、随分大森さんに助けてもらったし、多分びっくりする数の人がそれぞれのやり方で大森さんに助けられたんだと思います。
助けるってなんでしょうね。
結局自分のことは自分でなんとかするしかないのかな、と思うことも多いけど、そこにあってくれるのは大森さんの音楽です。
私が大森さんに助けられたこと、ちょっとでも伝わればいいなと思っています。
いつもありがとう。